インスピレーションや直感。
こういった自身の奥からくる声を聞くには、まず言葉をぜーんぶ置いておくことなんです。
奥からくる声って最初は言葉ではこないんですよね。
言葉というものは、何かを解釈するための方便の様なものです。
翻訳とも言えるかもしれませんが、翻訳は原書のニュアンスを完全に再現できません。ましてや言葉じゃないものを解釈しようとすると、結構ズレてしまうんですよね。
なので、一旦言葉での解釈という作業を置いておくんです。
そうしたところで、言葉での解釈は自動でついてしまったりしますが、
言葉以前の感覚もちゃんと見ることができますので、解釈に引っ張られにくくなります。
そんな様を見てますと、
「言葉での作業って、思考のことだったんだー。」
「そっかー。思考って言葉と同じものなんだー。」
なーんてことにも気づくかもしれません。
まさに、思考は言葉そのものであり、言葉は思考そのものなんですよね。
そして、ストーリーとは、言葉を積み重ねたものなんです。
言葉と思考を置いておくとその奥にはある種の感覚が残ってくると思います。
この感覚を判断せずに見てみるんです。
判断せずに見てみるっていうのは、ちょっと難しいかもしれません。
コツとしては
この子(感覚)はこのまんまでいいっていうことです。
腹が痛い!となると、こりゃイカン!となりますが、
じつはこの腹の痛み自体が問題なんじゃ無くて、痛みとは信号なんですよね。
この信号自体に問題はないというのと同じなんです。
うん。ややこしいですね。
信号が赤だから渡ったら危険!というのは、
この信号自体が危険なんじゃ無くて、車が危険なわけで、
信号をどうにかしようとするのはちょっと方向ズレてるっていう感じかな?
まだ、ややこしいかもしれませんが、ま、この辺までにしておいて、
そうしてそこに残る感覚。
それが、自身の声、インスピレーションなんです。
それが判断にさらされ、恐怖となった時、その恐怖を抑え込む作用が働き出し、思考と言葉で解決しようとする時、ストーリーが始まるんですよね。
また、
そこに残る感覚。
「これはつまり、何なんだ?」となった時、
これまた解釈が始まり、ストーリーを紡ぎ出します。
そんな様子も微笑ましく観察してみたらイイんです。
「ほえ〜。そういう風にストーリーって起こってくるのねー。」
ってね。
この感覚自体には本来、良いも悪いもなく、ホント可愛らしくそこに起こってるだけなんですよね。
そして、その感覚は見てる自分と完全に同化しています。
感じているし、見ることもできる。
つまり見るも感じるも同じなんだということが発見された時、
「あ、これを見てる誰かなんていないんだ!」ということも明らかにされるんです。
見ると感じる、客観者と主体者。
これ、一緒やん♪
っていう発見ですねー。
そりゃ、分離なんてどこにもないわ。
ってなもんです。
そしてこの自身の声は常にここにあったんです。
聞きたい!なーんて思ってたけど、その思い以前にそこにあったんですね。
ずっとその声を聞き続けては、それを言葉で覆い隠してたというわけなんです。
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