Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元の話は高尚なものではありません。

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非二元の話って別に高尚なものじゃないんですよね。

それどころか、

高尚とか低俗とか、そういう分離って後付けだよねー。

ホントのところはそういうのって無いよねー。

って話ですのでねー。

 


高尚でもなく、

低俗でもなく、

どちらでもないなんでも無い話なんです。

 

 


もちろん、正しい話でも間違った話でもありません。

 


正しいとか間違いっていうのは、ある種の観念がないと出てこない判断ですよねぇ。

 


この観念に良いも悪いもなく、

それはイメージであり幻想のようなもんですよね。

 


っていう話ですからねー。

 


でも、

どうしても、

「幻想に比べて真実の方が価値がある!」

みたいなね。

そういう考え方があったりするものですから、

全ては幻想である。

思考による幻想の奥に真理がある。

なんて表現を見かけちゃうと、妙に非二元の話が高尚なもののように勘違いされるパターンもあったりするのかもしれません。

 


すると、この勘違いが一つの観念となり、観念はストーリーを作り上げるわけです。

 


で、

こういう話をする人は、人間性も人格高い人なんだ。

みたいな思い込みによるストーリーができちゃって、

 


人格が高い人は出しゃばらないし、お金儲けしないし、

みたいなね。

そういったレッテルが貼られちゃったりしてねー。

 


でも全然そういうことではないんですよね。

そもそも悟った人も悟ってない人もいてませんしねぇ。

 


何かの観念の延長線上に答えを見つけようとしても、探求の新しい物語が付け加えられるだけなんです。

 


「悟った人はこういう人だ」なんていうストーリーもまた、

実態のないおままごとのルールみたいなものなんです。

 


こういう話を高尚と取ると

この話をする人は高尚な特別な人だと思う場合もあれば、そこに依存しちゃうパターンもあるかもしれません。

また

高尚さというルールに沿わない先生に対しては反発心が起こるかも知れません。

 


すると特別じゃないよーっ。特別なものなんてないんだよーって話が

いつしか特別なものになっちゃうというジレンマがあったりするんですよねん。

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