Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

答えはどこにある??

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もしかしたらね。
結構強力な信念で、誤解しやすい観念っていうのが、
答えがどこかにある。っていう思いなのかも知れないですねー。

答えがある。
っていうのが、実はある種の宗教のような思い込みだったとしたらどうでしょう?
答えはどこかにある教の信者さんって、結構な数を抱えてる教えなんじゃないでしょうか。

答えがあるはずだから、その答えを探し求めますし、
たとえその答えを見つけたと思っても、その答えが、本当に正解なのかどうなのか?
なんてことが気になりだすとキリがありませんからねぇ。

 

そこ気にしちゃいますと、探求は終わりませんし、
よっしゃ、もうこれが答えだということにしとこう!って割り切ったとしても、
やっぱりどこかで、ホンマにあってるのか?それ??
ってことで、くすぶりとして残っちゃいますしねん。

で、割り切ったはずだったのに、何かうまいこと行かへんなぁ。。。
ってことが続いちゃったりすると、
やっぱり間違ってたんちゃうやろか?
って思ったりしてね。

やっぱりってなんやねん!やっぱりって!
割り切ったんちゃうんか?

って自分につっこんだりして。

間違ってたんなら、また正解探しを始めなあかんのか!
めんどくさいなぁー!

ってねー。なりますもんねー。

そうやって探求はいつまでたっても終わらんのですよね。

答えを見つけた時が探求の終わりってわけじゃないですからね。

じゃあ、どうやったら終わるねん?と言いますと、
うほっ!
もしかして、答えって無いのん?
答え、なかったんや〜!!

ってのを知るのが探求の終わりな訳です。

うほー。
答えがないからすでに許されとるのかー。
ってことですし、
答えがないから、もうすでに救われとるっちゅうことかー!
ってことなんですよねー。

何かしらのしっくりこない思いがあったりするのなら、
「どこかに答えがあるはずで、その答えを自分はまだつかんでいないのかもしれない。」
っていう思い込みがあるのかも知れません。

答えがあるはずだと思ってたから、いつまでたっても答えにたどり着かなかったんですよねー。

ここが、結構やっかいなジレンマになってたりするんです。

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