Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考と時間と原因と結果と、私はいない、、。

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何にもない中で、何かを始めようとした時に、
そこに始まりと経過、そして終わりという概念が生じるんですね。

でね。経過があるから、原因というものも誕生するわけでして、
そして、始まりと経過と終わりという概念が、
時間という概念も生み出すわけです。

時間とは概念の中だけにあるイメージなんですよね。

こういった概念を牽引する衝動が、
何にもないなら始まらんやないかー!という思いです。

この思いは、何かを捉えてないと、生じないわけです。

つまり、思い=思考というのは、何かを捉えない限りは生じないんですよねー。

そして、この思い、思考ちゃんは、この思考が何かを生じさせてコントロールしていると勘違いしているふしがあります。

なので、常に思考を凝らしてないと、コントロールを失いエライ事になる!
といった恐怖感も持ってたりします。

なので、うまくコントロールしようと常に解決策を探すのに翻弄し続けるんですよねー。

そして、思考は時間と原因と結果の中にどんどん埋没していくわけです。

 

この思考は面白い事に、この思考には行為者がいるとも思ってたりします。
思考があるからには、それを操る自分という者がおるはずや!
と、思考が思考の中で、そう仮定しているわけです。

変な事なんですけど、
思考は身体をコントロールしようとするくせに、
この身体は自分自身だとも思っているんです。

そして思考自身は自分によって行為されていると思ってるわけです。
自分自身である身体をコントロールしようとしてるくせに、
このコントロールしようとしていた自分自身は行為者だとも思ってたりするんですよね。

そして、思考はその中で作られたものだけを世界だと認識しています。
思考を広げれば広げるほど世界も広がると思っていて、
思考の外にある世界には恐怖を抱いたりもしています。

自分という存在があるように思いながらも、その都度自分のありかをその時の都合で変えてたりもするんですよね。

心や感情が自分だったり、身体が自分だったり、
心や身体をコントロールする何か?が自分だったりねー。

その時の都合で後づけされるのが自分という観念やというわけです。

でも、なんかあるやん!
って思いません?

なんかあるからこそ、体を認識したり、思考が起こったりしてますやん!

ならやっぱりそれは自分やないですか!

ってねぇ。
思いますよねぇ。

そのねー、ただ在るもの。
これがもうすべてなわけなんですよねー。、

それに自分という観念を覆い被せてるだけなんです。

でも在るはもうすでに全てですので、何かの器には収まりません。
なので自分という観念に閉じ込めようとしてみても、
また閉じ込めた気になって、それを自分やと思ってたとしても、
じゃあその自分はどれなん?となると途端にわからなくなるわけなんですね。

自分はいないというよりは、その仮定の器は、有りませんよーってことなんです。

で、この在るは、思考とも感情とも目の前のスマホともありとあらゆる起ってることとも分かたれておりませんので、すべてであるわけなんです。

自分という観念を起点に、いろんなものを観念上で分けておったんですねー。

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