Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

記憶という夢からの目覚め

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僕らは記憶っている機能を持っています。
記憶があるから、一度覚えたものは次は簡単にできるようになるわけです。

記憶がなきゃ、
あれれ?これってどうするんやったっけー?
っていちいち立ち止まらなきゃならず不便で仕方ありませんよね。

記憶っていうのは便利な反面、それに頼りすぎるととても窮屈担ってしまうこともあります。
記憶の範囲内でしか安心が出来ないと感じてしまい、
その範囲内に閉じこもってしまうんです。

前例がないと何も出来なくなる。
みたいなのもそうですね。

真剣に記憶を受け止めれば受け止めるほど、どこかに不自由を感じたりします。

想像する未来も記憶の範囲内でしか想像できず、このままだと、
せいぜいこんな未来だろうな。
みたいな想像をしてしまったりするんです。

本来、記憶っていうのはただの機能であり、便利に使う道具にすぎません。

必要な時だけ利用すればいいだけのもので、必要のないときはほっておけばいいものなんです。

でも、記憶ん便利さにいつしか頼り切ってしまっていると、
まるで記憶に主人の座を乗っ取られたかのようになってしまうんです。

そして、記憶に悩まされていきます。

普通に考えたら、終わったことをほじくり返して反芻する必要ってどこにも無いはずなんですが、
ずっと前に終わった嫌なことを何度も何度も思考の中で繰り返し、反芻してはその時の嫌なことをまた味わう。
そんなことをやってしまったりしてるんですよね。

ついついね。

良いことだったら、暇な時に反芻しても楽しいかもしれませんけどね。

そして、その記憶の中に自分という物語を作り出しておるわけです。

自分の物語ってのは、記憶の中にしか無いわけで、
それは、種類としては、
想像の中の物語と同じようなものなんですよね。

ある種の記憶ってのはとてもいい加減だったりします。

だから、自分の物語っていうのも結構自分の都合のいい物語だったりするんですよね。

夜に見ている夢と自分が作り出している世界というのは、
同種のものなんですよね。

必要のないときは記憶を使わない。
無駄な記憶の参照はしないでいると、
単純にありのままの今だけが残ります。

一切に記憶を置いておくと、
そこに残る今は、

時間もなく、名前もなく、なんでもない
生の生命感だけが残ります。

様々なレッテルも記憶を参照して貼られていたわけです。
普段はそのレッテルの方を見て、それが起こっていること。
そして、世界そのもの。現実そのものと判断していたわけです。

そんな記憶を参照しない、ありのままの今を見た時に、
記憶の中の夢から覚めるんです。

レッテルの世界も夜に見る夢も同じようなものだと明らかになるんです。

そして、レッテルのない生のそれが残るんです。

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