Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

自分が見抜くんじゃなく、その自分が何かに見抜かれる。

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見抜きっていうのは自分が見抜くんじゃなく、
それそのものが、今まで全てだと思っていた自分を発見するって感覚に似てるんです。

変な話、自分が何かを発見するんじゃなくて、何かが自分を発見するんです。

妙な話ですよねー。

全てが最初にあるわけです。
最初ってのも変な話で、最初すらないわけなんですけど、ま、そこは置いといて、、。

で、その全ての中で判断や分類が起こります。
そして、分類の中の一つである自分をいう観念の中に、
その全てをイメージ上でぶっ込まれるわけです。

すると、全てである自分と自分以外の何かに分かれるわけです。

これらが、イメージの中だけで行われているって感じですかねぇ。

 

人はイメージの中で仮説を作る能力にたけてるんですよね。
このイメージの中の仮説。これは文字通り物語なわけです。

で、分類がなされているということはこれが自分でこれが何かで、、、と
瞬時に判断し分類するんですよねー。

で、発見されるのは、全部だと思ってた自分が、
それそのものの中の米粒みたいな点やったちゅうことなんですよねー。

今までそれそのものを失ったことはなく、その全体性を自分という殻に閉じ込めてた。
実際に押し込んで閉じ込めたわけじゃなく、
たんに、イメージの中だけで、そうしてるつもりでいたってわけです。

まるで、おままごとをしているかのように、
あなたはお父さんよー。私はお母さんよー。
いってらっしゃーい。ご飯食べなっさーい。
みたいな感じのおままごとの設定をあえておままごとの上でそう見なしているのと同様に、

中心点である自分というものがある事にしておきましょうねー。
って、
そう見なしていた。

それだけやった!

っていう発見なんですよね。

ただ、どうしても自分という中心点を置くというクセが無意識に残ってたりするんです。
その場合はこの発見もまた自分という設定の中に持ち込まれたりするんです。

全てであるそれが自分を発見したというね。
この全てをまた、自分という設定の中に押し込むわけです。

すると、自分がわかった!みたいな錯覚が起こったりするわけなんですよねん。
ちょっとテンション上がったりするわけです。

そのうち
その分離のクセが抜けてくると、

なんやねん。わかったって、、、。
最初からあった当たり前のことなんやんか。。。

このクセが物語を自動生成して、その物語の中だけにのめりませておったというわけか。。。

ってね。
物語によって不必要に生じていた不自由感から自由になるんです。

当たり前に最初からあった自由に戻ってくるんですよねん。

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