Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

全てしか無いと言われても、相変わらず体の範囲しか認識できませんが??

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非二元では、全てしかないと言いますけど、
その中で私は冷蔵庫にもなれず、コップにもなれず、
相変わらず自分の体の範囲しか自分だと認識できないんですけど?

ってねー。
思わはるかたもおられると思うんですけどね。

結構、何かしらの状態になるのか?みたいな誤解があるようにも思うので、今日はその辺を書いて見たいと思いマッスル。

 

目の前のコップはどうしても自分という認識はありませんし、
冷蔵庫だって家電ですし、自分じゃないですし、

全てしかないっていうからには、その全ての中に溶け込んでるわけですので、
冷蔵庫だってコップだってそういう分離なく、自分だと認識できるはずやとおもうんですけど、
そんなのは変ですし、そんな状態で日常生活もおくれませんやん?

ってねー。

んー。
気持ちはわかるんですけどねー。
結局のところ、
そのコップも
その冷蔵庫も自分の中にありゃしませんか?

って話なんですよね。

日常は普通に日常としておればいいですし、
なんか、全てしかないっていうのをことさら主張して生きていくっていうのとも全然違うんですよねー。
それだとしたら、なんか悟った風を気取って生きてるってことになるじゃないですかぁ。
そんなん、キモイですやん?

そういうのが好きな人はそうしてもいいんですけど、
友達と喫茶店に行った時も
「あんた何する?」
って聞かれたらいちいち、
「私というものは存在しませんが、この体の現れが、カフェモカを欲しているように感じますので、カフェモカをいただけますでしょうか?」

なんてねぇ。
言ってられませんやん??

多分、何十回も書いてると思うんですけど、
何かしらの特別な誰かになるっていう話じゃ無いんですよね。
そして、アタマで理解する何かでも無いんです。

なので、何かが変わるってことじゃ無いんです。

何かしらの状態を維持することでもなけりゃ、
自分の認識を変えるってことでも無いんですよねー。

なのでね。
自分が何かを演じてるわー。っていうことが起こるのなら、
普通に演じればいいですし、演じることが起こらんのなら、それでええんです。

演じることがなくなるってわけじゃありません。
それやったら、裸で出歩くようになるかもしれませんのでね。
だって、服を着るってのもある種の演技ですからね。
でもそんなん、変ですやん??

自分という認識が日常を捉えて生きている。
っていうのが、普通の認識かもしれませんが、

単に起こっているだけです。
そこに日常とか自分という認識があるように見えてるだけです。
見えてるならそれでいいんです。

その見抜きがあるだけです。
ホントはその見抜きがだれかにおこってすらなくて、

ただ、
在るだけ。

何ですけどね。

この在るだけってのは状態ではなく、当たり前のソレそのものです。

地球が平たいと思っていると、どこかに断崖絶壁があって、このまま船旅を続けてると落ちてしまうかもしれん!
っていう不安がどこかに在るかもしれません。
でも、
地球がホントは丸いことを知ってたら、そんな不安は起こりません。

自分という何かしらの認識や、その自分を中心として生きていき、
その自分がなくなると全てが失われるかもしれない。
っていう不安は、断崖絶壁に落ちてしまうかもしれないっていう不安に似てます。

自分という認識が起こってるならそれでいいですが、
それをどうにかより良いもの、何かに書き換えていかなければ!
みたいな思いは別に絶対必要なもんじゃ無いんですねー。

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