Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

イメージではなんでも起こりうる

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タクさんでございます。

今日はイメージについてお話してみようかなぁと思います。

いつも僕、仕事前にはカフェに立ち寄ってコーヒーを飲みながらこの記事を書いていることが多いのですが、今日もコーヒー飲みながら記事を書いてます。

というわけで、目の前のコーヒーを例にとってお話を進めてみたいと思います。

僕らが実際に経験していること。
それ以外のモノってイメージなんですよね。
イメージっていうのは記憶やら思考から作られたひとつの物語のことです。

例えば、目の前の机の上にはコーヒーが置いてあったとして、それを見ている間だけは、なにかしらのコーヒーに見える何かがあることはわかってますよね。
厳密にはコーヒーに見える何かが独立してあるわけじゃなくて、周りの景色と同様に、分離もなくひとつの景色に見えるものだけがあるんですけどね。
その中の一部分に注目したときだけ、そこにコーヒーがあるように見えているだけで。

で、そのまま机から離れて他の場所に行った時には、その机の上にコーヒーがあるかどうかという思いは、イメージでしかないんです。
そりゃね。
机に戻ると普通にコーヒーが置いてあるかもしれませんけど、
もしかしたら誰かがどこかに片付けてるかもしれません。
実際のところ、自身が実際に経験している事以外はイメージでしかないんですよね。

そのイメージってのは実在している何かではなく、空想のようなものでしかないんですね。

外からクルマの音が聞こえてたとして、外にクルマが走っていると思うのも、イメージなら、
高次の存在がどこかにいるというのもイメージでしかないんです。

もしかしたら、ホントにクルマが走ってるのかもしれないし、テレビの音かもしれない。
高次の存在が実際にいるかもしれないし、いないかもしれない。
ある人には見えてるのかもしれないし、そのある人の何かしらの感覚が鋭くなって視覚情報として脳内に見えているものを、そう名付けているだけかもしれない。
イメージの中に作られた世界は、いかようにも起こりうるんですが、そこに実在は無いわけです。

あるのは、目の前の実際の経験だけ。

その経験とは、音でもなく景色でもなく、感触でもない。
音や経験と認知される以前の何かなんです。

でね、
その何かとそれに気づいている自分。

起こっている何か。
気づき。
自分。

これらのものに距離はあるのか?

といいますとね、よくよく観察してみると、
距離なんてものがあるはずなんてないんですよね。

距離があるというイメージは起こるかもしれませんけどね。

じゃあ、その気づきと自分。
そして起こっている何かについて、分離があるのか?

これもよくよく見てみたらないんです。

距離がないので分離があるはずもないんですよね。

気づきも
何かも
自分も、

何のイメージも付け加えなければ、
一つの何かじゃないのか?

と観察できると思うんです。

また、それを離れたところから見ている何かはあるのか?
鑑賞者はいるのか?

といいますと、そんなもんもなくて、

ただ在るだけ。

それだけなんです。

こういう事って、
落ち着いて確かめてみたら、普通に確かめられることなんです。

あらゆるイメージもその在るの中で起こっているだけでね。


そして、

それがなんやねん?
といいますと、何でもないんです。

それが何かの役に立つのか?
といいますと、何の役にも立ちません。

何かの助けになるわけでもなく、何の役に立つわけでもない。

そして、何かに役立つモノを探さなきゃいけないという強制もなけりゃ、
何かの意味を探さなきゃいけないという強制もなく、

なんの強制もないので自由なんです。

ただ在るだけでしかなく、
それが全てなんです。

イメージされている部分に閉じ込められるととても不自由感を感じたりします。
なので、それを解消する役立つ何かを探したり、
より良くなる何かや意味や意義を探してしまいます。

それをイメージの中で探してしまうので、見つからないんですよね。

でも、イメージの中にいるのかどうかは選択できます。
いつでもそういったイメージを採用するかどうかは選択できるんです。

イメージにどっぷりつかるもよし、そうしないのもよしです。

イメージはイメージとして起こり続けますし、
嫌なものは嫌だし、好きなものは好きですし、個性も個人も起こり続けます。

個人が、
聖者っぽい人になったり、
物腰がやらかくてやさしくて、、、

なんか愛に奉仕するまなざしで全てを見つめる。
みたいな人に必ずなるわけじゃありません。

そして、そうなる個人が起こっても良いわけです。

ただ、イメージについて見破られると、

イメージにどっぷりつかってもイメージはイメージでしかないと、どこかで確信はあります。

そして、その確信は誰かがするでもないんですよね。
なぜなら、誰かとか自分とか言うのモノはそのイメージの中にしかいないからなんです。

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