Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

善悪という心の鎖

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僕らは子供の頃から、何が良くて何が悪いのか?を叩き込まれています。
だから瞬時に判断が起こります。
そしていつしか、この善悪という判断が、心のかせとなっていくんですね。
善の行動。
この善の行為の先に
平安と平和があるわけではないんだけど、
なぜかそこを勘違いして自分の善の先に平和があると勘違いしてしまったりしています。

この勘違いは、自分の善と合致しないものを悪とみなし、
自身の善に酔う人は悪を糾弾し、自身の善を正当化したがったりします。
そんな先に平安なんてあるはずがないんですよね。

今までのクセで条件反射的に善悪の判断がなされることによって人は自身の首を絞めているんです。

善悪の判断が強ければ強いほど、人生に対する深刻さが増してきます。

さらには、深刻でなければ善ではないみたいな意識も蔓延したりするんですよね。
そしてその判断が、自身の人生に苦悩をもたらしたりしちゃうんです。

平安を善行の先にある何かとか、
悪を懲らしめた先に訪れる何かとかね。

何かしらの条件が達成された暁に平安があるとして、
その平安を求めちゃうと、いつまでたってもその平安は訪れないんですよね。

これは、善悪なんてないから何をやってもオッケーだぜー!
みたいなことを言ってるのではありません。

何をやってもオッケーだぜー!なんだとしたら、
それがオッケー。つまり許された何かになってしまっていて、
結局判断の中で右往左往しているに過ぎないわけですね。

また、自分と言う概念から解放されよう。
そういたら、この善悪の判断からも自由になれるわけだな!
っていう思いも、判断の中の右往左往と同じになってしまいます。

自分がホントはいない。
たしかに自身にも自分がいないという経験があった。

なのにまた自分が戻ってきている。
いかんいかん。
自分がない状態に戻らなければ!

みたいなね。

自分があることは悪くて、自分が消えている状態が良いことだ。
ってな想念も起こったりしてね。

これも判断の中で右往左往してるのと同じですね。

この右往左往も判断も、
全部、ある種の想念なんですよね。

そして、この想念というものは、
ただ見ることで、はじめてこれはただの想念だと気づくことが出来るんですよね。

見ずにいると、想念だという事もわからないですからね。

そして、この想念を抑え込もうとすると、
この抑え込もうというのもまた想念なわけで、
結局のところ想念に巻き込まれていることになっちゃうんです。

だからできることはただ見るだけなんですよね。

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