Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りパッケージ

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悟った人。
そんな人はいないというなら、なんか見抜いた人。
そういう人にはもう自分は無くて、
見抜いていない人にはまだ自分がある。
私にはまだ自分という概念が時折顔を出すから、まだまだそこには至ってないんだ
みたいな考え方を持っちゃう人もいると思うんですけどね。

で、特別じゃなく、最初っからあるココのことなんやでー。
ってね。
言われたとしても、どこかやっぱり、なんらかの特別感がぬぐえないというかね。

そんな感覚もあると思うんですよ。

僕自身、以前はそんな感じに思ってました。

なんていうか、悟りと言うパッケージが出来上がっちゃって、
これもまたひとつの概念になっちゃうんですよね。

で、この悟りパッケージとはどういったパッケージなのか?
をより正確にしようといろんな人の話しや本を読んで確かめたくなる。

こうなってしまうと、
あの覚者はああいっていたけど、その割には金儲けをしてるからオカシイ!
あの人はまだ比較的正しい感じがする。

とかね、覚者に対する変なこだわりみたいなものが出てきちゃったりしてね。

もうややこしさに拍車がかかってくるわけなんです。

ちゃうんですよ。

だれでも、自分なんていないんです。

ただ、それっぽいもんが出てきてる時だけ、
それがあるように思うだけなんです。

それが連続しているように感じるのも、
記憶を参照して、連続を作り出してるだけなんですよ。

ぜーんぶ、見かけにすぎないんです。

でね、覚者といったような特別性も存在しないんですよね。
特別っぽく見かけ上表れてるだけなんです。
それを特別と見る人の前でだけね。

だから、もしあなたが、
まだ自分が残ってるから至ってないんだ。

みたいな考えが出てきてるんだとしたら、
それが今だけ出てきてるだけであって、

悟りやそれがあなたの中の何かを解決するわけでもないんですよね。

エライ先生なんかが、
「それ」に至ると、どーなる。こーなる。
ってね。
言うんでしょうけど、
最初っからそーなっとるんです。

つまり最初っからブッダなんですよ。
それしかないというかね。

そう見えない何かが見かけ上起こってるように見えてるだけでね。

だから、何かしらの本質が変容して、どうにかなるわけじゃないんです。

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