Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

エゴの成仏

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

お釈迦さんの教えなんかではね。
執着を捨てろ!
みたいな話がよく出てきますよね〜。

ただ、こういうのを聞くと、
執着は悪だ!みたいなね。
そんな思いも出てくるかもしれません。

エゴにしてもそうですよね。

エゴとは、言い換えると自我のことなんですけどね。
このエゴもまた執着だから、
これは捨てなければならない!だからエゴは悪だ!
みたいなね。
そんな思いもまたあるかもしれません。

でも別に、執着やエゴって悪者じゃないんですよ。

思考ちゃんはすぐにどんなものでも
善悪に分けたがりますからね。

善であるお釈迦さんが、捨てろというものは、
すなわち悪であーる!
みたいなね。

そんな理解をしたがるんです。

ただ、そうやって、善悪で分けたがるクセ。
これこそ執着の元だったりするんです。

だから、もし何かが善で、何かが悪である。
っていうね。
そんな思いが湧いているのなら、
まずはその善悪を疑ってみる。

そして、この善悪のこだわりを手放してみる。
っていうのが良いのかもしれませんね。

 

私はエゴが強いのでしょうか??

よく頂くご相談の一つで、
「私はきっとエゴが強いんだと思います。」
「だから、なかなかこのエゴを手放せないんです。」

みたいなものがあったりします。

こういった相談をされる方は、きっとエゴが強い自分を責めておられるんだと思います。

でもねぇ。
これって別に責めることはないんです。
だって、エゴが強い!ってものすごーく素敵なことなんですよ。

だってほら、
ぼくらって、一所懸命な姿を見ると感動したりするじゃないですか。
甲子園でボールを追いかける球児に感動したりしますもんね。

エゴが強いっていうのも、まさにそういうことなんです。
だから、自分を責める要素なんて一切ないんです。

エゴの強さを祝福する

あー、なんか一所懸命なんだね!それもまた素敵だね!
ってね。

ちゃんと認め、受け入れてあげるんです。

高校球児をみるような目線で受け入れてあげれば良いんです。

エゴが手放せない自分。
この自分って自分じゃないですからね。

そもそもこれってちょっと変ですよね?
だって、エゴが自分なのか、エゴを持ってる自分がいるのか?
エゴを持っている自分は、エゴを手放せないというエゴをもっているのか?

ってね。
なんかここに自分というラベルがあることによって、
わけがわからないことになっちゃったりするんです。

自分というラベル

自分はというものはラベルなんです。

それは、空想のラベルであって、そんな自分はいないんですよね。

そういうイメージ風景なんです。

認められーん!と逆らっちゃったりするのは、
自分というラベルから始まる錯覚なんです。

なので、この景色に逆らう理由なんてないんです。

この健気な一所懸命を祝福してあげないから、
幻想の自分が傷ついちゃうわけでして、
だからこそ、余計になんとかしなきゃいけなくなったりするわけです。

このせいで、余計に錯覚が強くなるんですよね〜。
自分という空想ラベルは、許されないことによって強化されるという感じですかねー。

エゴの成仏

だからね。
ここはもう紳助さんばりに、
「素敵やん!」って言ってあげてください。
それが、幻想を破壊するきっかけになってくれるんです。

自分という幻想は、許されることで成仏してくれるんです。

ま、そんなわけでしてね。
エゴは忌み嫌われるような捨てなければならない悪の存在ではありません。
それは祝福されるものなんです。

あなただけがこの祝福をできるんです。

それがなされたとき、エゴは成仏されていくんです。

 

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