Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

明らかさについて

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この上なく明らかで、当たり前のこと。
それが「それ」です。

この明らかさについては、みんな本当は知っているんですが、
その明らかさの上で生まれる概念の方に注意を払ってしまうことによって、
その明らかさを見逃しているんです。

この見逃しについて今日は書いていきたいと思います。

■■■

例えば、この記事の最初にある画像。
これって、ネコに見えませんか?

でも、違うんですよ。

これって、猫じゃないんです。

へ?
どこが違うのん?
って思いますよね?

でも、これはネコなんかではなく、
これは、ただの光の寄せ集めなんです。

・・・

なんだよ。屁理屈かよ。。。
ってね。思いますよね。ごめんなさい。

でも、本当はそうじゃないですか。
この記事はみなさん、パソコンや、タブレットや、スマホで見ていただいてまして、
あの画像は光の点の寄せ集めであることは重々ご承知ですよね。

その光の寄せ集めが猫のように見えているというだけで、
猫そのものとは全然違いますよね。
ニャーって言いませんし。

で、なぜこういった屁理屈をのたまっておるのかといいますと、
この屁理屈を「それ」について、例えるなら

この画像を猫としている部分が、いわゆる概念であり、物語であって、
真実とは、これはただの光の寄せ集めである。ということ。

とまあ、そんな感じなんですね。

普段、僕らは、この概念の方を現実として受け止めて、
本来の当たり前のことについては、目を背けているんですよね。

まさに、単なる光の寄せ集めを猫だと認識し、光りの寄せ集めであることを忘れているかのようにです。

でね、当然のことながら、
その猫に見える画像が光の寄せ集めだったとわかったところで、
見かけで見える猫は何ら変化は起こりません。
分かったら、黒猫が白猫にかわることはありませんよね。

それと同様に、
あなたの環境についても、「それ」を知ったところで変わることは無いんですね。

ついつい僕らって、「それ」に何らかの変化を求めちゃったりするんですよね。
至福とか、静寂とか、平安とかね。
ここで求められてる至福とか平安ってのはもう、想像の産物なんですけど、
それを求めてしまうがために、「それ」の本質を余計に見落としちゃったりするんです。

でも、猫が変化するわけないのと同様、環境が変わることもないんです。

ただ、その環境についての深刻さはなくなってきます。

なぜなら、その環境は、見かけでただそう見えているだけだということが明らかになってくるからです。

なので「それ」についてわかったところで、
外の環境については、なんら変わらないわけですが、
その環境は概念から生まれていることは明らかになってくるんです。

「深刻さはありません」とか「すべては物語です」といったような話を聞いた時、
場合によっては、
深刻さをなくそうと頑張ってみたり、
それは物語なんだと自分に言い聞かせてみたりしてしまうことがあるのですが、
そういった試みも意味がないんですよね。

深刻さをなくそうとした結果、深刻さがなくなってくるのではないからです。

ただのあるがまま。
それが明らかに在る。

そしてそれは、特別でも何でもなく、平凡でそのまんまの当り前なんです。

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