Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

「それ」の神秘とはなんなのか?

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「それ」だけがあり、
「それ」は全てであり、
「それ」には分離はありません。
全部だけがあります。

そして、全ては起こっていて、起こっていません。
全ては、未知であり、その未知こそが、
ぬあぁぁぁあああ!って感じなんです。

で、これはただの描写でしか無いので、
正直なところ、それを聞いたとしても、

おおお!いいなぁーすげーなぁー!さっぱりわからんけど。。。
と思うか、
けっ!なんやねん!訳わからんわいっ!
って思うかのどちらかなんじゃないかなぁーって思います。

でも、この
ぬあぁぁぁあああ!ってやつは、絶対にみんな知ってるはず!って思うんです。

なので、あえて、違う表現で書いてみよっかなぁーと思います。

そして、このぬあぁぁぁぁ!の前では、もう考えてることなんて、バカらしく感じるんです。

例えばそれは、

どでかくそびえる山の前に立ちすくんだ時。

もしくは、底の見えないくらい広大な谷に注ぎ込まれる大きな滝を目の前にした時。

数限りなくある星々がきらめく大宇宙に放り出されたとしたら?

みたいな感じでしょうか?

そしてこれらのすべての感覚はあなた自身の中に存在しているわけです。

すべての「それ」は、このぬあぁぁぁ!しかないわけであって、その上でのちっぽけな考えに取り込まれているなんて、
なんていうか、もうバカらしくかんじられ、
もう、そのまんまでいいじゃーん。

って感じになるんですよね。

いろんな人が、このぬあぁぁぁあ!について、表現しています。

ざっと挙げてみても、

生の感覚。
イノチって感じ。
愛。
至福。
安心。
静寂。

みたいな感じですかね。
いろんな言われ方をしていますが、全部同じものを表現しています。

けど、なんていうか、この表現された言葉を聞いて、
その言葉をもとに連想してみようとしても、それは全然違うものになっちゃうんですよね。

なぜなら、「それ」はもっとダイレクトで、もっとシンプルだからです。

言葉は、それがどんな言葉でも多少の複雑さが伴います。

例えば、
「無」というかなりシンプルめな言葉でさえ、

「有ではない」
「空っぽな感じ」
「有るの反対」

みたいな感じの意味が付与されます。

この意味が複雑さとなり、そこでダイレクさトやシンプルさが失われるんです。

なので、言葉では表現できなかったりするんですよね。

「それ」は完全な未知の中に在るんです。

未知とはなーんの判断も起きてない「それ」です。

例えば、
森の中を歩いていたら、ドーンと目の前にどでかい滝があらわれたとしますよね?
その滝をバッ!と見た瞬間!
むっ!って何か壮大さに包み込まれた感覚を感じるじゃないですか?

まだ、おースゲー!とかの言葉が出てくる前の、むっ!って感じです。

はたまた、
海の向こうに沈む綺麗な太陽を見て、ふわっ!って感じたときの感覚。

疲れて帰ってきたときに
ぐぶぐびぐびっ!ってビールをのんで、ぷふぁーってなる直前の、ぐっとくる感覚。

それらの、言葉になる前、判断が起こる前の、むっ!って感じ。
そのむっ!となってるときは、完全に未知なんですよね。

そして、そのあとに、おー!スゲーじゃん!綺麗やなぁー!
とか、
ぷふぁー!うまいっ!
とか、言った言葉が出てくるわけです。

未知の中で、言葉や判断、物語が生まれてくるわけですね。

その時に、物語に意識が同一化することによって、未知が忘れられているだけであって、
今も、目の前に見える見飽きた風景。
たばこの吸い殻。
書類の数々。
転がってるペットボトルのふた。
パソコンのキーボード。
スマートフォンのボタン。

これらが、全ての存在として、未知の中でむっ!と表れているんです。

これは、大自然で感じるむっ!っていう感覚と全く同じものであり、
存在そのものなんです。

見飽きている、
知っているということが、
その「むっ!」を覆い隠しているだけなんです。

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