Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考と感情の境界線が消えるとき

はじめに

どもー!
タクさんです。
みなさん、美味しいもの食べてますか?

さて、「思考を置いておけばいい。」なーんてことを言っていますが、
「置いておくってどうするの?気づいた時にはもう思考はおこっちゃってるんですけど、、、。」
「そして、置いておこうとすればするほど、これも思考?あれも思考?」
「置いておこうとする!これ自体も思考じゃないの??」

って混乱しちゃうことってあると思うんです。

ま、置いておくっていうのは、思考が現れないようにするっていうのとは違いますのでね。
現れたら現れたで、そのまんまにしておけばいいんですが、
そう聞いても、
「そのまんまにはしておけない!」
って感じちゃう方もおられるかも知れません

きっとどうでもいい思考であれば、簡単なんですが、そのまんまにしておけない!って感じる思考に関しては難しく感じるものなんですよねー。

それは単なる思考ではなく心が乗っかった思考だからなんです。

というわけで、今日は心や感情、感覚や思考について書いてみたいと思います。

「心」は、思考 × 感覚 のミックスジュース

心とは思考そのものでもあるんですが、感情(=体の感覚)がのっかった思考なんです。
感覚と思考がまざっているので、実際に感じている感覚は本物だから思考もリアルに感じるんです。

まるで高度なVRみたいなものですね。
しかも、思考ちゃんはこの感覚に対して自分に完全に合うストーリーを作り出してくれます。
自分にとってど真ん中のストーリーを紡ぎ出してくれるんですよね。

だから、ついつい僕らはこのストーリーに引き込まれてしまうっていう寸法です。

これは現実じゃなくてストーリーなんですよー。って聞いたところで、
「でもちゃんと感じてるし!」
ってなっちゃうんですよね。

風の強い荒野を散歩している映像を、扇風機の風にあたりながらみてるって感じでしょうか?

風を感じているからこの荒野の風は本物!ってなってる感じです。
思考にとってはかなりの納得感ですもんねー。

混ざるのがうますぎる理由:境界線がそもそも存在しない

なぜ思考と感情(=感覚)はこうもうまく混ざり合うのか?といいますとそもそも思考と感情に境界線がないからなんです。

これは、感情でこれは思考ってね。
つい僕らは分けて考えがちですが、実体としてはそんな区別はないんですよね。

ほら、自然のモノに一色で表現されてるものってないじゃないですか。
あらゆるものはグラデーションのようにいろんな色が混じり合ってますよね。

そしてグラデーションに、境界線はありません。
思考や感情も同様に、そもそも分けられていなくてごちゃ混ぜになってるんです。

感情とはまるで“味”みたいな感覚

感情とは感覚のことなんですが、ちょっと味に似てるのかも知れません。
だから僕らも、感情が乗っかった思考について、
苦い経験とか、甘酸っぱい思い出と表現したりしますもんね。

そんな味わいが情感を伴い、そこに思考のストーリーが混ざり合うんです。

実際に感覚はリアルに感じているので、思考を置いておこうとしてもうまくいかなかったりするんですねー。

ですがこれもよーく感じてみると、ただの感触であることがわかると思います。
注意深く感じてみると、感情がひとつの「感覚の味」として感じられるんです。

「ただ感じてみる」ってよく言われたりするじゃないですか。

これだって、別にこの感覚を深掘りして解釈を加えるってことじゃなく、ただ感じてみることで、そこには良いも悪いもなく、ただの感覚であってそれ以上でもそれ以下でもないことを改めて確かめるってことですからねー。

そんな様子を確かめていると、思考もまた不意に現れてくる感覚の一つと感じられてくるかも知れません。
思考の方は、味というよりは、聞こえてくる音みたいな感じですかねー。
(まあこれは個人的な印象にすぎませんが、、、。)

そんな感覚も含めた全てがただ起こっては消えていくんです。

この様子を眺めていると、眺めている自分もまたその全てに溶け込んでいくんです。

 

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