
はじめに
はいよー!
おはようございます。タクさんです。
僕らってね。
あらゆることを、二つに対比にするのが好きだったりするじゃないですか。
例えば、
表と裏、光と影、水と油、火と水、太陽と月、天と地、プラスとマイナス、喜びと悲しみ、安心と不安、希望と絶望、陰と陽、、、etc
って感じでねー。
一見、この対比ってものすごーく事実かのように見えちゃうじゃないですか。
でも違うんですよ。
思考の中では正解かも知れませんが、対比なんてものは思考の中にしかないんです。
つまりあるように見えて無いんですよね。
でね。
こういった界隈でよく出てくる
「思考」と「気づき」とか、
「思考(幻想)と「全て(真実)」、
「自我(エゴ)」と「真我(アートマン)」も同じで、
ありそうに見えるけど実在してない対比なんです。
対比っていうのはあくまで概念、つまり考え方の指標のようなものであって、事実とは関係ないものなんです。
というわけで今日は、「思考と感覚」という対比をテーマに書いてみたいと思います。
思考と感覚もまた実在の対比ではない
よくここでは「思考を置いておいて、感覚を感じてみるといいよー」的なことを書いてたりするんですが、こう聞くとついつい「思考」と「感覚」みたいな対比を思い浮かべてしまうかも知れませんが、これも違うんです。
そんな対比なんて実在してないんですよね。
そんな感覚を感じているとね。
今度は
「内」と「外」
みたいな対比も浮かんでくるかも知れません。
体の感覚は “自分の内側” のように見えて、
音や匂い、景色は “外側” にあるように感じられる。
でもこれも思考のラベル貼りです。
実際に内と外という区別は存在せず、ただ思考が自動的にそう判断してるだけなんです。
刺激にも分類はない
体の感覚はどうしても刺激が強めで、
音や景色より “自分寄り” に感じやすいじゃないですか。
でも、
音も景色も体感覚も、全部まとめて一つの起こり。
分かれていません。
感覚ですらないのかも知れません。
ただ起こっているだけ。
音は音ですらなく、感覚もまた感覚ですらないんです。
でもどうしても思考は何かしらの分類をするんですけどねー。
思考もまた「起こっているだけ」 の一部
そしてね、この思考。
これもまた感覚と分離していません。
「思考」と「感覚」があるのではなく、
それらは区別される前の 「ひとつ」 として起こっているんです。
体感覚と音はちょっと違うように感じるのと同様に、感覚と思考もまた違うように感じるかも知れません。
その 「違う感じ」 を生み出しているのもまた思考で、
誰がやってるわけでもなく勝手に起こっているんです。
その様子を奥深くの自分が観ている。
そんな感覚を感じるかも知れません。
実はその
「観ている側」と「観られる側」という対比も存在しないんです。
思考も感覚も「勝手に起こる」という同じ性質
ですのでね。
まずは、難しい解釈は置いておいて、
思考もまた一つの感覚として感じてみたらいいと思います。
ほっぺが勝手にかゆくなる。
自分がそうしたわけじゃないことは明らかですよね。
そんな感じで、思考も勝手にやってくる様子がきっとみて取れると思います。
そして、思考と感覚をわけている思考。これもまた勝手に起こっている。
そんな感覚もきっと感じ取れると思います。
思考も感覚と同じ。二つは分かれていないと気づけるんです。
勝手にお腹が空いたり、勝手にどこかが痒くなり、勝手に感じるあの感覚。
それと思考は何ら変わらないんです。
そうすると、私が思考しているわけではないということは明白です。
この思考こそ「私」を演出している正体なんです。
まさに幻想演出ですね。
私がやっているという幻想から目覚めてくると、この幻想演出の全てが明白になるんです。