
はじめに
はーい!どうもっ!どうもです!
タクさんです。
さてみなさん。
みなさんの目の前にグラスに半分だけ注がれた水があるとします。
これって、もうそれだけで完成されてますよね?
グラスに注がれた水がある。
もうそれだけですもんね。
ただ在るだけです。
でも、思考ちゃんっていうものはただ在るということを掴み取ることはできません。
だから、何かしらの判断をしようと試みます。
ああ、半分しかないわ。
とか、
半分もある!とかね。
何かしらの判断をしようとするんです。
この注がれた水が多いと思うのか?少ないと思うのか?
これを多いと思おうが少ないと思おうが目の前のグラスの水は、
全く同じものです。
多いと思うのと少ないと思うのとでは、見え方が違う!
なんて話はよくありますが、そもそもその見え方って本質を見てないですよねぇ?
だってこれって思い込みを通した見方ですもんね。
ここで書いているいわゆる悟りのお話は意識改革。つまり思いを変えて見方を変えるとか、何かを得ようと言うお話ではありません。
思い込みを通した見方って幻想みたいなものだよね!
そういった思いで何かを得たっていうのも得た気になってるだけだよね!
っていうね。
なーんていうか「当たり前」のお話なんです。
探求の先に答えはない
こういったお話を聞いた時。
例えば、「私はいない」とか「すべては完璧」とか「至福しか存在しない」とかね。
どう考えても私はいないとは感じられないし、完璧とも思えないし、至福も感じない。
となると、きっと自分は何かしらのものの見方が間違っているのか?
もしくは、今の私が知らない「何か?」があるのか?
習得すべき「何か?」があるのか?
って思っちゃうじゃないですか。
そして、その「何か?」を探し求めることになるわけです。
ですが、思考ちゃんはあるがままをあるがままに捉えることはできません。
だから何かしらの価値基準を通してあらゆるものを掴み取ってるわけなんです。
不足しているとか、幸福じゃない!とか。
あらゆることを感じる主体者としての「私」。
これもまた、思考ちゃんが何かを捉えるために作り出された幻想のような概念なんです。
何もしないように「する」のではなく、「そのまんま」にしておく。
探求の先に何かしらの答えがあるということではないんです。
だからと言って、探求をやめろと言ってもおさまらないものですよねー。
そんな探求すら、「私」がやっているわけではなく思考ちゃんの反応としてたんに起こっているだけのことなんです。
ややこしい話になりますが、「起こってる」「起こってない」なんて二者択一すら実際には存在してないんですけどね。
これもまた、思考ちゃんが何かを捉えようとする架空の概念なわけです。
ですので、もう言葉の表現を超えているというか、言葉というツール自体が思考ちゃんの働きそのものになってしまうので、表現できないわけなんです。
だから、起こっていて起こっていない。なんでもないものが在る。
くらいにしか言いようがないわけですが、この言葉すら答えを表現してるとも言えないってなっちゃうんです。
だからもう、何もしないってことになるわけですが、
何もしないって言われると、ついつい思考ちゃんは「何もしない」を「しよう!」としちゃったりするんですよねー。
だからもう、そのまんまにしておいたら良いんです。
思考ちゃんはこういう感じで物事を掴み取ろうとしてるんだねー。
いつも忙しそうだねー。
ってな感じでね。