はい。
おはようございます。
タクさんです。
狼少年という物語がありますよね。
本当の題名は「嘘をつく少年」だったかと思います。
嘘つきの少年の話です。
さて、この嘘つきが、
「僕は嘘つきです。」
と言ったとしましょう。
するとどうなるでしょう?
嘘つきの少年が嘘をつくと言ったということは、
この少年がいうことは本当だということになります。
だって嘘つきなはずですもんねぇ。
嘘つきが嘘つきというのなら、この人が言うことは本当だと言うことになる???
あれれ?ではこの少年は嘘つきなのか正直者なのか?
とたんに迷いにハマりこんじゃいます。
どちらが正しくて、どちらが間違いなのか?
この問いは、この嘘つきの話と同様に解くことのできない問題なのです。
つまり、嘘も本当もなく、正しいも間違いもないというのが、本当のところです。
こう言った話を聞いて、
「つまりこういうことなのか?」と、
なんとか指針を掴もうとすることは、
余計に迷いにはまり込む罠でもあります。
この罠こそが分離の罠なんですよねー。
しかも、時に人はこの迷いを好みます。
何かしらの迷いを頭の中で働かせ続けることには、
ある種の中毒性があるんですよね。
迷いを解きたいと思いながらも迷いの中に安住したがるわけです。
そして、この安住が自分を保つことにもなるわけなんです。
「自分」というのは、何かしらの働きが生じていてこそ保たれます。
空っぽになると、「自分」も同時に消え失せてしまうからなんですねー。
つまり「自分」というのもまた、働きだというわけなんですが、
この「自分」が消えるのが嫌なのでなんとか踏みとどまろうとしちゃうわけです。
僕らが「自分」を通して見た世界。
これはすべて「自分」の投影です。
そこにいる他人もまた、「自分」を通した投影なんですねー。
実際には他人は存在しません。
投影することによって、演出されているだけなんです。
そして、面白いことに、「自分」を通した投影の世界の中にも、
「自分」が存在するわけです。
これもまた、他人と同様に存在しているわけではないんですよねー。
つまり、いないのは他人だけじゃなく、自分も同様なんです。
だから、迷いから脱出するために、他人のことをあーだこーだと考えるのには意味がありません。
その他人は自分の投影でしかないのですが、他人だという認識は、本当は自分を観ているというのを拒んじゃいますからね。
僕らが何かを通して観る世界は全て「制限」という枠に縛られます。
この「制限」が時に苦を生じさせ、葛藤を生じさせるんです。
全てに制限などあるはずがない。制限は作り上げた条件の中にしか存在しないんだ。
っていうねー。
この発見があった時、「自分」というのも、ある種の制限に「自分」という名前をつけていたにすぎなかったということを知るんです。
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