はーい。
おはようございます。
タクさんです。
自分が自分を認めるのにねぇ。
そもそも条件が必要なわけないんですよね。
それはあまりにも自分を過小評価しすぎています。
だって、限定した条件に自分を閉じ込めちゃってるわけですからねー。
それだけでも自分への冒涜だというのに、
さらには、
その条件を満たさない自分に対して、
不足感を抱いちゃったりするのって、もうどうなん??
ってことなんですよ。
水中を優雅に泳ぐことができるカメに対して、
地上で早く走るべきという条件を当てはめて、
それができないカメに対して、
ドジでのろまなカメ!というレッテルを張るみたいなね。
耳の長いウサギと、首の長いキリンを並べて、
鼻の長さで評価する。
みたいなね。
そんなことを自分に強いてたりするのって、
見当違いも甚だしいですよね。
自分の価値を条件に求めたり、
その条件を自分の価値の担保にするのって、
ありもしない条件の奴隷になっているのと同様です。
そもそも、価値というものは幻想にすぎませんからねぇ。
好き嫌いのようなものなんです。
たまたま、好きという人が多いのか、
好きという人がいるから、価値があるんだと思い込んでるだけですからねー。
「ああしたほうがいいかな?こうしたほうがいいかな?」
という考えは、あくまでも自分の道具です。
思考は道具として使うために発展してきた一つの能力です。
その思考で作られた条件に自分の気持ちや感情、さらには生き方まで支配されちゃうのって、アホらしいじゃないですか。
だから、そんな条件によって起こる思考や感情のいうことはいちいち聞かなくていいんです。
社会人としてこうあらなければならない。
大人として、こうあらねばならない。
普通の人ならこれくらいのことができる。
男としての責任。
女としての責任。
親としてこうあらねばならない。
体は健康であらねばならない。
見栄えは美しくあらなければならない。
体重はこれくらいが妥当で、
学歴は、、、
成績は、、、
・・・etc.
そして、そんなあらゆる条件に沿わない自分を見つけては、
頭の中で自分は足りないを連呼し、
足りていたとしても、なんとか維持することにエネルギーを費やす。
疲弊したものは負け組とレッテルを貼り、
負けたものを探しては勝ち誇り、心の奥では失う恐怖を感じたりして、、、。
そして、ますますこの世の真実に目を背けるというわけですねー。
真実は条件を重ねた先にはありません。
なぜなら、真実とは、無条件で未知なものだからです。
僕らが何もしなくてもここにあるもの。
これが真実ですからねー。
自分が持っている、押し付けられた「〜べき」は、
自分の奥深くに眠っています。
だからなかなか意識できないかもしれません。
でももし、自分に不足感を感じるのであれば、それを見つけるチャンスです。
それは、そんな自分でもいいということを許してあげてみればいいんです。
ここで、「許せるわけないだろ!なぜなら・・・」と湧いて出てくるのが、
掴み取っていた「〜べき」。押し付けられていた条件なんです。
条件の本来の使い方は、遊ぶためです。
美しくあらねばならないのではなく、美しく着飾って遊ぶものなんです。
そうであっても、そうじゃなくてもどっちでもいいオマケなんです。
どんな条件にかなっていても、条件が満たされていなくても
それらは不必要なオマケでしかないんです。
罪という言葉の語源は、的を外すという言葉からきています。
「〜べき」に振り回されることが、まさに罪であり、的外れなんですよねー。
そして、本来の無条件さに落ち着く時、
未知の中にリラックスする時。
足りる、足りないの
的外れな独り相撲をしていたことに気づくんです。