Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

出来ない自分というトラウマ

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人が持つ大きなトラウマのひとつって「出来ない自分」という誤解なんじゃなかろうか?
なーんて思うんですよねー。
いわゆる無力感ってやつです。

うまくいってるうちは上手いこと隠れてるけど、
ちょっと出来ないってな場面になると、不意にそれが出てきて辛くなる。
なーんてねー。
せっかくちょっとした自信を持てたと思ったのに、
やっぱ所詮、私だもん。ダメだよねー。
って思っちゃったりしがちなんですよねー。

僕らは子供の頃から出来ない出来ない!ってね
ちょっと言われすぎてきたんですよ。
思わされすぎたんです。
そもそも出来るとか出来ないとか、そんな重要なことじゃないことをね。
さも重要なことのように植え付けられすぎたんです。
それがトラウマのようになって、無力感として、
心の奥に鎮座してたりするんですよね。

 

ちっちゃい頃は、歩いたらコケるし、
歩けるようになってきても、上手に走れませんし、
走れるようになってきても、自転車には乗れませんし、、、。
学校に入ったら、漢字が覚えられない、
なんとか覚えた途端、また知らない漢字が出てくる。
出来るようになったらまた出来ないことが生じてくる。
算数だって次から次へと、新しいことが出てきたりして。
時に競争を強いられ、
まだ出来ない!まだ出来ない!を押し付けられすぎてきたんですよねー。

そんな中、出来ないという思いはあまり気にせず、
おっしゃ出来たー!だけをうまく受け取ってきた人は、
ある程度自信を身につけていきますが、
そりゃーこれだけ出来ないを押し付けられてきたら、出来ないのトラウマにかかっている人も沢山いるわけです。

そんな「出来ない」というトラウマが、自分を必要以上に過小評価するようになって、
自分の中に足りない思いをいだきつづけるんですよねー。
そして、その足りない何かを外に求めると、その不安定さに右往左往しちゃうわけです。

だって外の環境も、この先のことも、わからないことだらけですもんねー。
そこに何かを求めても、結局わからないという不安定さを思い知るだけになってしまいます。
そんなわからない中で何かをわかろうと、何かを掴もうと躍起になっても、
いつまでたってもそれはつかめないまま、右往左往するだけ。
そうなっちゃうんですよね。

そもそもね。
出来る出来ないって重要じゃないんです。
だってこれ、慣れてるか慣れてないかの違いでしか無いですからねぇー。

まだ慣れてなーい。
慣れてきた。

これだけの事なんです。

もし、何かに挑戦してみたい。
なにか行動を起こしてみたいと思ってるのなら、
出来る出来ないについては、あまり気にしなくていいと思うんです。
面白ければ、やってるうちに慣れてきますのでねー。
そして面白ければ面白いほど何度もやってみたくなるので、どんどん慣れていく。
つまりどんどん出来るようになっていくというわけです。
だったら、やってみたいならやってみたらイイ!ってことなんですよねん。

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