Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分の内側と、自分の外側

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どうしても僕らって、自分の内側と外側がなんとなーくあるように感じてたりするんですよねー。
この内と外に分けられる感覚ってのが、分離感なんですよね。

で、この分離感で持って世界を見たり感じたりしてるわけですが、
よくよく観察してみると、あらゆることって
ぜーんぶ自分の中にしかないんですよね。

感覚や感情はもちろん、見える景色も赤の他人やと思ってる誰かさんのイメージもね。
ぜーんぶ自分の中で起こってるんですよね。
で、その外にはどうやっても出られるはずもなくて、
そやって、自分の中の世界観ってのが出来上がっていって、
それを他の人が持つ世界観と、
時には共感したり、時には反発しあったりね。

そう言うことをやってるわけですが、
他の人の世界観が自分の中のものとはどうしても違ってくるので、
やはり、自分というのと、他の人、さらには他のものや他の存在ってのが有るよね。

っていうイメージを自分の中の世界観に植え付けているわけですね。

で、そういった全ての考えって、ぜーんぶ概念的なものであって、
その概念を信念でもって信じているんです。

そういった概念はおままごとのルールのように概念的なもので、
おままごとのルールってのが人によってたくさん有るように見えますが、
それもぜーんぶ実体のないであって、都合によっては変わるものだったりもするんですよね。

いずれにしても、結局自分が作るイメージ、
自分の中にあるイメージの外にはどうやってもいけないわけなんですよね。
で、自分の中にはない知らないことが外側にはあるはずで、
今はイメージできてない外側の世界を求めて探求を続けちゃったりするわけです。

この大元には、あらゆることを自分の中にはもっておいた方が
自分という存在を確立させるために役立つはずだ。

みたいなね。
そんな観念があったりもするんです。

だから、自我ちゃんという働きは、ずーっと探求を続ける存在なんです。

そういう自然現象のようなものなんですね。
ネコが動く虫なんかが飛んでたら、パーンって猫パンチをしようとするのと同じで、
条件反射のようなものなんです。

木を燃やしたら炎が出て、そのうち黒炭となる。
みたいなことと同じでね。

だから、自我を変えよう!変えよう!としても、
その変えよう!ってのがもうすでに自我ちゃんの働きなので、
どうしようもなかったりするんですよねー。

さて、あらゆる働き。
自然現象もホントのところは名もなく、意味もなく起こっております。
そこには区別もなく途切れもありません。
区別や途切れを作ってるのは、観念やイメージの方でしかないわけです。

でね。
何が言いたいねんと言いますとね。
そういった観念やイメージもやっぱり自分の中にあって、
そのイメージから外には出られないじゃないですかぁ?

ということはですね。
もう、外ってのは存在してなくて、内しかないってことになるんですけどね。

だって、外があるってのもひとつの想像として自分の中にあるわけですからね。

じゃあ、もう、自分の内しかないってことなんですよ。

ということはですよ?

外がないのであれば、当然、内もないんですよ!

外ってのは、内があって初めて成り立つのと同様に、
内ってのも外がないことには成り立たないわけでしてね。

だから、自分の内しかないというよりは、
外も内もない。ってことになるんですよね。

ということはですよ?

外も内もないのであれば、もう自分ってのもないってことになるんですよ。

自分っていうのは、外と内を決定づけるひとつの中心点だった訳なんですけどね。

その中心点ってのが、外も内もないことで失われるんです。

となると、
もう在るが在るだけってことになりますが、
在ると無いという区別すらもう存在しなくなってくるんですよね。

だって、中心点がないから。

と、いうわけで、もう「それ」しかない。

みたいなことになってくるんです。

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