言葉には真実はありません。
言葉っていうのは、単なる記号なんです。
私はいないというのも、全ては幻想だというのも、
すべてただの記号です。
この記号に意味を付与したときに、意味が生まれますが、
その意味の付与も想像の中でそうみなしているだけのものです。
そして、その記号の意味と真実とは全くの相関関係がないんです。
言葉がややこしくなってきましたね。
例えば、リンゴという言葉。
ここからイメージされるリンゴの実。
これって、実際には、リンゴの実はリンゴそのものではなく、
リンゴの実が起こる前に木があって、花が咲いて、その後に実がなって、
と、常に流れている一部を切り取って、ただリンゴと呼んでいるだけで、
リンゴという言葉には、そのものの真実性は表せていません。
手といっても、
その手の真実性は表せておらず、身体の一部のなんか先っぽが分かれている感じの部分を切り取って、手と呼んでいますが、
実際の真実性を表しているわけじゃありません。
あらゆる言葉は流れの一部を切り取って固定化させているただの記号でしかないんです。
この記号でしかない言葉に、意味と真実性を付与して、思考し、いつしかそれこそが世界の真実だとみなしていたりします。
この意味づけとそこからネズミ算式に増えていく思考の数々。
これらが幻想だと言われているわけです。
ホントの真実に目を向けてみると、
一切の分離もなく、流れのみが生きています。
この存在、生命感。
これしか、実際のところは無いんです。
全ては起こっていなくて、起こってます。
私はいなくて、私は在ります。
言葉という記号は、表か裏のどちらかしか表現出来ません。
そして、表を表現すると、裏の否定という意味も含まれてしまいます。
だから言葉ではそれについては表現できないんです。
なんにもありませんだと起こってますの否定の意味が含まれ、
私はいませんだと、全てがあるがおかしなことになってしまいます。
ホントは表も裏も無いんですよね。
勝手にそうみなされてるだけなんです。
分離されていると思っていてもそんなもん無いんです。
分離があると思うから、私は正しい!といった思いが生まれてるんですよね。
すると他人は間違ってるも同時にうまれちゃったりしてね。
んなもん無いんですよね。
あるのはコレだけですしね。
もしかしたら、真言、マントラみたいな、意味を付与できない、意味の無い言葉というのはそのために作られたのかもしれませんね。
普通の言葉だとついつい意味を探っちゃいますからね。
でも本来、意味の無い訳のわから無いマントラも、普通の言葉も、
そのどちらも、意味のない、なんにも真実を表してない、
ただの記号でしかないんですよね。