よくねー、観照者意識になるとか、そういった話があったりするんですが、
あなたは既に観照者なんですよねー。
なのでね。
頑張って観照者意識になろうしなくても良いんです。
ん?この感じが観照者意識なのか?
あってるのかな?違うのかな?これで良いのかな?
とかね。
そういう事を考え出すと余計にわかんなくなってきたりもしますもんねぇ。
こういうのは、そうなるとかならないかじゃなくて、
単に、「うんそうだよねー」って確かめるだけで良いんですよね。
「そうだよねー。知ってた。」
って感じです。
だから、確かめちゃえば、
あってるとか間違ってるとか、そういう思いも湧いてきません。
それはありふれた当たり前だからです。
観照者というのは、いわゆる気づきの意識なんですが、この気づかれた対象に意味を付与しない単なる気づきのことです。
気づかれた対象に意味を付与しない単なる気づきっていうのは、
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、目の前の車を車だ!と認識する以前の、気づきであり、車だ!と思ってることにも単に気づいている意識。
みたいな感じです。
ちょっと言葉ではどうやっても説明できないんですが、、、。
厳密に言えば、観照者といった誰かもおらず気づく主体もここにはいないわけですので、観照者意識というものもいないんですけどねー。
なので、あなたはすでに観照者というよりは、あなたはすでに気づきだということになります。
気づきとは主体と客体がひとつになった、意味づけ以前の「なーんでもないもの」です。
いずれにしても、僕らは何かに気づいてるからこそ、そこに意味づけをすることができるわけですのでね。
そしてつねにこの意味づけされる以前のこの気づきに僕らはさらされているので、このことは重々承知してるんです。
ただ、この気づきを意味づけの中で捉えようとするから、途端によくわからないものになったりしてるんですねー。
その気づきに意味を付与した途端、それにピタッと意識がくっつくんです。
そして、意味を付与した途端、そこで分離の概念も同時に生じてくるんですよね。
なぜなら、分離をさせないと、意味は付与できないからです。
ほんとは、そこに付与された意味ってぜーんぶウソなんですけどね。
そして、その意味ってぜーんぶ言葉で出来ています。
一旦言葉をぜーんぶ置いておくと良いかもしれません。
その、言葉以前のなんでもない空間にリラックスしてみるんです。
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