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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

ポジティブでいるより、自分自身であること

私はいない 自我の消失

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ふぇーい!おはようございます。タクさんです。

今日は、ちょっとお知らせを2点ほど。。。

まず、一点目なんですが、
ブログランキングをやめました。

いつもポチッとしていただいた方ありがとうございました。
おかげさまで激戦の哲学ランキングで、最高3位、だいたい4位キープができました。
大勝利でございます、、、なにがや?ってことですけど、、、

ま、ちょっと影に潜もうかな、、、ではないですが、
一旦やめることにしました。

後もう一点、
ここのところ、時間がなくコメントの御返事ができておりません。
どうもスイマセン。
コメントはありがたく読ませていただいておりますので、こちらにて、お礼申し上げます。
ありがとうございます。
ホント、ありがたいです。

しばらくは記事の方に専念すべく、コメントの方は、よくお店とかにおいてある落書きノート的な感じとさせていただこうかな〜。なんて思っております。

なので、あまりお返事は出来ないかもしれませんが、質問などは記事のほうで取り上げさせていただくかもしれません。

スイマセンがご了承のほど、よろしくお願いします。

 

というわけで、
本題でございます。

さてさて、今日は自分自身の信頼っちゅうことで書いてみたいと思いますです。
「私はいない」とか言っておきながら、あえての私=自分自身のお話です。

自分を信頼してあげるってのが良いと思うんです。

自分への信頼があるとねー。
ネガティヴなことが起きても、それに支配されてアタフタしなくても良くなりますんでね。

ここってよく誤解されがちなんですけど、
悲しいことに悲しまない。
ってことじゃないんですよね。
悲しみを感じることへの許しなんです。
そして、ことは起こっては消えていきます。

悲しまないようにしよう。
怒らないようにしようと、抑圧するんじゃなくて、
そのまんま、通り過ぎさせてあげるんですよね。

通り過ぎさせてあげるには、ネガティヴな何かを、いさせてあげなきゃなりませんし、
いさせてあげるには、それを抑えようしてないってことになるんですよねーん。

抵抗せんでいいんです。
これが自分への信頼なんです。
自身への信頼があれば抵抗の必要はないんですよね。
悲しいときは悲しいを自分に許せてる。
そんな自分を信頼し、受け入れとる。
ということですからね。

なので、悲しまない自分にならんといけん!
どがいかせんといけん!
っていうのが無いですしね。

要は信頼し、受け入れとる。
ちゅうわけなんです。

自分の中にある不信感ってね。
幻想のようなもんなんです。

もし、不信感があると感じてるのだとすれば、
何かしらのウソさを信じとるっていうことなんですよね。
そのウソさが、自身の光を遮っとるんです。


このウソさっていうのが観念だったりするんですけど、

大体は「〜〜であるべき。」
みたいなね。
そういったたぐいのもんなんです。

こういうのって、話で聞くと、
そうか!そうか!

ってね。
納得しやすいんですけど、
なかなか自分の中にある「〜〜べき」
っていうのって、見逃してたりするんですよね。

そしてその「〜べき」に反することが起こったり、
起こりそうな事態になると、
途端に不安感みたいなものに支配されちゃったりするんです。

逆に言うと、不安感とかに支配されとるって言うことは
なにかしらの「〜べき」があるんとちゃうか?ってねー。
見つけるチャンスかもしれませんね。

なんで、「〜べき」があるのかというと、
やっぱりそのまんまの自分じゃダメ。
っていう不信感があるからなんですよね。

で、自分にダメ出ししとるわけです。

もちろん、能力を磨くことは全然OKなんですよ。

たまーに、やる気を無くして、腑抜けになるって言う意味とはぜんぜん違うんです。

ただ、自分自身でいる。
自分自身である。

っていうことなんですー。

自分が作り出した「〜べき」に支配されるということじゃなくてね。
あまり「〜べき」に支配されすぎると、
その不自由感からしんどくなってきたりしますのでね。

なんで自分で作った「〜べき」に自分で絡め取られとるんや!
っていうねー。

「〜べき」なんかなくても、あなたは素晴らしく、完璧なんです。
許すとそのことが明らかになるんです。

すると不思議なことに、中心点だった私へのこだわりが薄れてきます。

許すことで薄れるワタシ。

そう、
ワタシとは、足りないから探求するというある種の動きだったんです。