Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

ダメな自分がいるという幻想は、そのどこかにウソの物差しがあるからかも。

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非二元についての理論を追い求めるのって、結局、足りない自分を埋めようとする欲求だったりするのかもしれないなー。

なーんてね。
思うわけです。

大前提として、理論を理解すれば何かがわかる。
ってね。

思っちゃってるわけですからねー。

でも、いつまでたっても理論では自分を埋められないかもしれません。
なんとなーく理解したような気になって、
その理解を気休めに利用できるような場面もあるのかもしれませんけど、

ま、気休めは気休めですからねぇ。

で、多分ですが、それが理論への理解だろうがなんだろうが、
何かを追い求めるというからには、
何かが足りないからのはずなんですよねー。

ということは、
何かしらの不足があるわけなんですがね。

その不足していると思っていることがね。
全てである「それ」をある種なにかしらの型に押し込めてるはずなんです。

ということは、押し込めた抑圧された「それ」。
抑圧された自分っていうのが何処かにあるのかも知れません。

その、知らないうちに抑圧してた自分を認めてあげたらいいんだと思うんです。


とはいっても、まずはそういった抑圧された自分っていうのを探してみないといけないわけなんですけどね。

ダメでいいし、ダメがいい!
ってたまに書いたりしますけど、
それって、ダメなママで諦めようというのとはちょっとニュアンスが違います。

向上心を持たないでいるというのとも全然違う話なんです。
べつに向上したけりゃすればいい訳です。

向上というのが、上へ上がるのかというと、そうでもなくその段階っていうのは作られたイメージではあるんですけどね。


ま、それは置いておいて、

そのまんまで、ちゃんと足りてる。
そんな素敵な自分を認めてあげるのと、何かを諦めるのとはちょっと別の話なんです。

ダメでいい。ダメがいい。

っていうのはね。
不要な物差し、概念の物差しを捨てちゃえば?っていう話なんです。

そういった概念の物差しがなければ、良いとか悪いっていうような、、、
そんなもんは存在しないはずなんですよねー。

ということは、ダメが受け入れられないということは、
なにかしらの自分に対してダメだと判断している概念上の物差しがあるはずなんです。

抑圧された自分っていうのを探し出そうとするとねー。

大体の場合は、

うわぁ〜。。。。
これ、自分が一番嫌いな人やーん。

みたいなねー。

認めたくない自分の姿として現れてくることが多かったりするんですよね。

そこで、

そうか、、、どうせ自分はダメなんだ。。。
と言った感じで受け入れるんじゃなくて、

どんなウソの物差しで、これをダメだと見なしておったんや?
というねー。

ウソさの物差し探しをしてみると良いのかもしれません。

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