Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

経験しかあらへんがな!→な~んもないで!→全部あるで!

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座ってたら、何かしらの座ってる感覚がありますよねぇ。
音が聞こえてたら、その音の感覚があるわけです。
感情も、思考も、何かしらの感覚が起こっとるわけです。

これらは、誰かに起こってるわけじゃなく、ただ起こってるわけなんですよねー。

と、いうわけで、確かめてみましょ!

例えば、鳩がポッポーと鳴いている音が聞こえるとします。
これ、自分に起こってるわけじゃないですよねぇ?

たんに、ポッポーと音が聞こえてるわけです。

ラジオから流れる音。
これもラジオからなってるわけで自分に起こってないですよね。

でも、音として感覚はありますよね。

その音の感覚は、対象として感じられてるわけです。

じゃあ自分が座ってる感触。

これも音と同じように、感覚として感じられてるわけです。
この感触も対象として確認することが出来ますよね。

感情も、その感情を感じているということは、
対象として認識できておる!っていうことになります。

自分が考えていること。
思考。

この思考の内容だって、自分で認識できますよねぇ?

そうやって色々なことは、認識できるわけでございます。

ここまでは、普通のことやと思います。

この認識に対して、これはワタシの感情だ!とか、
これは鳩の鳴き声だ!
みたいなレッテルを貼って、そのレッテルにリアリティをもたせたり、そこから物語が展開しておるわけですけど、

こういったレッテルだって、物語だって、ちゃーんと認識されとるわけです。

でね、こういった認識をズラーッと並べてみるとね。
そこには、なーんの差も無いんですよね。

鳩の音という認識。
ラジオの音という認識。
座ってる感覚という認識。
考えているという認識。
感情を感じているという認識。

認識ということでは、な~んの差もないわけです。

さて、この認識に
何かを経験しているワタシ!という思考も加わるわけです。

鳩の音という認識。
ラジオの音という認識。
座ってる感覚という認識。
考えているという認識。
感情を感じているという認識。

そして、認識を経験しているワタシという認識。

となりますね。

これらは認識以上でも認識以下でもなく、起こっとるわけです。

でも、何かしらの味わいの違いを感じますよねぇ?

じゃあ、〇〇という認識から、◯◯を取っ払ってしまうと、
味わいだけが残ります。

認識とは経験に何かしらの判断が加わったものだったんですね。
この判断を取っ払っちゃうと、経験だけが残るわけです。

そういった「味わい」だけを経験しとるわけですね。

理由付けをすると、良い味わい。悪い味わい。
みたいに感じたりするかもしれませんが、それも単なる判断が起こってるだけです。

全部が経験であって、そういった経験って見ることができるんですよね。

これがいわゆる観賞意識というやつですね。

まだこの段階では、見てる自分がいる。って言う概念が残っとるわけなんですけど、
ここでジレンマが出てくるんですよね。

見てる自分がいる。っていう思考があることは見ることが出来るんですけど、じゃあこの主体を見ることが出来るのか?

といいますと、それは決して見ることができないわけです。

何をどう頑張っても、自分の顔を実際に見ることができないのと似ています。

自分の顔なら、決して実際に見たことはないのですが、あることを知ってますから、どうしてもこの見ている主体者がいるという感覚が根強く残ってたりするんですよね。

でも、どう頑張ってみても、この主体を確かめることはできません。

それは、単なる「主体がある」というクセでしかなかったんです。

このクセづけがある時弱まってくるんですよね。

このクセってウソとちゃうんか?単に無いものをあるとしている概念があるだけちゃうんか?
みたいなね。

ホントはそんな言葉でもないわけですが、なんとなくこの主体があるから見てるんや!っていう観念がね。チカラを失ってきたりするんです。

見てる主体がいないってことは、残るのはこの経験だけとなるんです。

この経験の中には、全ての認識づけも含まれています。
ワタシという認識もこの経験の中に含まれてるんですよね。

主体という認識、それ以前の経験。そして経験ですら無いなんにもなさ。

これらが全て、ただ在ります。
そして、中心点だけがないんです。

すべての客観だったものが、主体を失うんです。

そこで、中心点も、主体と客体と言った関係性も意味を失うんです。

それらは、単なる意味付けとして残るんです。

話がややこしくなってきましたが、世界が変わるように感じてな~んも変わっとらん。
主体があるという部分だけ夢を見ていただけやっていうね。

一瞥体験が「自分に」あった!というのも夢みたいなもんでしかなかった。

たんに「それ」が、何も変わらず、何も取り去られたりもせず「全て」として残るんです。

「全て」になっちゃうと、あるとか無いとかも意味を失うんですよね。
だから、全部あるっていうのはな~んもないと変わらないんですよねー。ややこしい話ですけど。

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