Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

先生と生徒、師匠と弟子みたいな関係性も時には邪魔になるんですわ。

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非二元のことを学ぼうと思ったなら、やっぱり普通は本を読んだり、誰かから教えてもらったりするわけですよねぇ。

でもこれって、学問じゃ無いですからねー。
なんていうか、多少は教えてもらったりしても良いと思うんですけど、
あんまり、先生と生徒。
教える人と教わる人。
みたいなねー。
そんな関係性が邪魔になってきたりもすると思うんですよね。

そうやって教える人と教わる人っていう前提がありますとね。
なんていうか、わからない自分と、わかっている先生みたいな関係性が出来てしまいましてね。

先生に何か質問をしたとしたら、先生が、
「それはあなたの中にまだ執着が残っていて、その執着が幻想を見せているんです。」
とか、
「あなたの中にある恐怖が自我を作り出しているんです。」
とか、
「ラーメンは食べた人にのみ至福はおとずれる。」
みたいにね、答えてくれたとしますとね、

それを聞いてしまうと、余計に、
わからない自分とわかっている先生。
みたいな、
そんな関係性を自分の中で作ってしまったりするんですよね。

その、あの人は分かっていて、自分は分かってない。
となると、そこに何かしらの差があるんだ。

みたいな観念がもう無意識にできちゃうんですよね。
それが余計な観念になってしまう場合があるんですよねー。

これって、自分の中を観察することですからねー。
なので、他の人とかそんなもんは
ほーんとに動でもいいことなんです。

そもそも、そういった先生だろうが覚者と言われてる人だろうが
なんら特別ってわけではありません。

なので、特別な何かを持った人への依存みたいなものができてしまうと、
それが「そのまんま」を見ることの邪魔をしてしまうんですよね。

便所の落書きだろうが覚者の言葉だろうが、
酔っ払いのおっさんのちょっとええ話だろうが、
どれも同価値なんですよねん。

みたいなことを何度も書いてますけどね。
ここがミソなんですよ。

ここが腑に落ちたら、今まで自分の中に蓄えていた
価値観というのが、ホントにイメージでしか無い単なるおままごとのルールのようなものでしかなかったんやん!
ってね〜。明らかになってくるんですよねん。

そのためには、自分ってどんな価値観持ってるんやろう?
ってね、まずは観察してみなきゃ始まらないわけなんですよねー。

なのでね。
知らず知らずのうちに、無意識に持ち込んでしまってる
自分の中の観念。
その観念の中には「自分」という観念も含まれますから、ちょっとややこしいんですけど、それが解ける感覚の方を見てあげるといいと思うんです。
誰かに師事するよりはね。

そりゃ先生の中にはすんごいオーラというか、すごい透明感というか、
そういうのを持ってる人もいるかもしれません。

なんていうか、優しげな雰囲気とかね。

あーーー。あの透明感に憧れルゥー♪
ってね。
思う人もおるかもしれませんけどね。

でも、何かしらの感覚を誰かから感じるのだとしたら、
それは自分の中にある感覚が共鳴しとるからなんですよねー。
つまり、その素晴らしさはあなた自身の中にあるっていう事なんですよね。
なので、あの先生はやっぱりすごいわぁーって感心するよりは、
その自分の奥で共鳴してる、ファってなってる自分の中のファッに
リラックスすればいいんです。

それが、自灯明ってやつですね。
偉いお坊さんに「ちゃうわいっ!」って怒られそうですけど。。。

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