Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

一瞬一瞬がサプライズぅ~

f:id:takuteto:20170409232923j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

一瞬一瞬がサプライズぅ〜
それがベストなタイミンぐぅ〜。

というわけでおはようございます。
タクさんです。

ぐっぐぐっぐぅーな朝をお迎えでしょうか?
朝起きたら、ウソでも笑ってみるといい気分になるらしいですよ。
僕はそんなことやってないですけど、
もし、朝の気分が重いというのであれば、一回試してみてはいかがでしょうか。

さて、、、

一瞬一瞬がサプライズでございます。
サプライズというからには、何が起こるかわからないわけですねー。

これが世の真理なわけです。

良いとか悪いとかではなくね。

そんな中で、ちゃんと事が起こるとおりに起こってもらわないと困る。
って言う思いがあったとしたら、もうこの世は悪夢のようなもんになってしまいますよねぇ。

だって、起こることは絶対に思った通りには起こってくれないんですもん。

そりゃ、予想通りになってよかった。ってなことも沢山ありますよ。
電車に乗ったら思い通りの場所につけた。
みたいなね。

でも、それも結果論でございまして、
箱を開けてみないことには何が出てくるかは実際はわからないわけでしてね。

次がどうなるかはやっぱり、わからんわけですね。

まあ、準備しておく。備えておくってのがアカンって言ってるんじゃないんですよ。
やれることならやっておいたら良いですし、
それでいて、やらなくても良いですし、
それはどっちでもいいんですよ。

でも、元々わからないのが当然なことををわかっておかなきゃいけない!
ってね。
あまりにも思いすぎると、それは不安としてのしかかってきよるんですね。

不安が多いと身動きが取れなくなってきます。

でもって、この不安を解消するには、答えが必要だ!
ってなるんですよね。

占いでなんとかならんやろか?
引き寄せの法則だったら解決してくれるやろか?
悟りが解決してくれる??

みたいな感じで、不安を埋めるツール探しをしてしまうんですよね。

わからんもんは、わからんで良い訳なんですけど、
それではいかーん!まかりならーん!

ってなってるので不安が発生するわけなんですけどね。

それって、なんでいかんのか?まかりならんのか?
ってなると、
その奥になんか自己不信とか、恐怖とかがあるわけなんですねー。

でね、
この辺がややこしいんですけど、自己不信や恐怖を抑え込もうとするのもまた、
自己不信や恐怖だったりするわけです。

すると、延々と不信や恐怖といった傷口に絆創膏を重ね張りする。

みたいなことになって、元々の傷口がどんなもんだったのか?
も見えなくなってきてたりするんですよね。

そのまんまにしてみて、
まかりならーんっていうエネルギーを見てみる。

そして、そのエネルギーに対してねぎらってあげる。

「よく頑張ってくれてありがとな!」
「ええねんで!大丈夫やで!」

ってね。

今まではムチ打って、しっかりと不安を埋める材料探してこーい!ってやってたんですよね。

とはいっても、完全な解決はありませんので、そこでそのエネルギーの着地点が見いだせず、
暴走状態になってくると、エネルギーが枯渇していくんですよね。

それが、重さとかしんどさの原因なのかもしれません。

材料がないと、なんか自分が弱く見えたりして落ち込んだりすることもあるかもしれません。

でも、そんなことないんです。

一瞬一瞬がサプライズぅ〜
それがベストなタイミンぐぅ〜。

なわけですのでね。

そういったサプライズをたのしーに味わえばそれでええんですよね。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

気分が現実を作る??

f:id:takuteto:20170409232725j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

景気ってあるでしょう?
あれってどういう原理でよくなったり悪くなったりするかと言いますとね。
みんなが、
「金ならまた入って来るがなー!
ジャンジャン使ったれー。」
ってなったら景気はよくなって、
「あかんあかん、金ないし節約して行かなあかん!」
ってなったら悪くなるんですよね。
景気の気っていうのは気分の気。
な訳です。
自分自身の世界が、自分の気分っていうフィルターを通して見てるのとおんなじで、
集合の意識は集合の意識を通して社会を見とるんですよね。

景気だけじゃなくて、
ありとあらゆる社会の風潮も気分が作っとるだけなんですよね。

でもって、この集合意識も個人が見たい集合体を選んで見とるわけでして、
結局自分が見たい世界を自分で見とるっちゅうわけですね。

例えば、グーグルで何かを検索して調べてるとしてもね。
それも結局のところ自分が見たい答えを探して、
そう言った同じ意識からくる答えに導かれてるワケでしてねー。
予定調和のようなもんで、見たいもんを見て、
やっぱりそうやったんかー。って確かめてるにすぎなかったりするんですよねん。

例えば、陰謀論とかもね~。
なに?その都市伝説www
ウケるわー。本気でそんなんあると思ってんの?
って感じで調べだすと、同じような考えのウェブサイトがヒットしてそっちを見て共感することになりますし、

いやいや、世界は陰謀に満ち溢れとる!って信じていてね。
政府の陰謀や!そしてその裏にはフリーメーソンの存在がっ!
おっと誰か来たようだ、、、。
って思ってたら、そんなウェブサイトを見て共感するワケですからねー。

で、もっと言ってくと、
そもそも見てる個人ってのはいてなくて、
単に観念があるだけでしてね。
観念っていうのはなにかを信じているっていうエネルギーのようなもんなんですけどね。
この観念を信じてる度合いによって、
観念はどんどん固定化し、
その固定化された固定観念が、信念として色濃くなり、
さらなる観念を作り出し、、、。
ってやってるだけでして、

でもって、この信じてる度合いが、単にリアリティ感を持たせてるだけであって、
このリアル感ってのは、単に観念を信じてるからにすぎないワケでしてね。
その観念の一つにワタシという観念があるだけやったりするんです。

この、単に信じてるだけっていう単純さが見抜けてくると、
へ?
もしかして何かを理解しようとするってことも、単に信じてるだけ??
それだけやったん??
ってなことも明らかになってくるワケでしてね。

イヤイヤイヤ、そしたら自作自演ですやん。
ってねー。
なってくるわけです。

ウホホッ!
この石ころをダイヤと呼ぶことにしようぜ!
この紙はお金ってことにしようぜ!
ってやってただけ???

ってなことも明らかになってくるワケでして、、、。

ふぁー!

自作自演のウソさが見抜かれると、なんていうか生命感みたいなもんしか残らんやんけ!
この生命感にいろんなリアリティをくっつけて味わいたかったんやん!
だからわざわざ分離した気分になって生命感を感じてただけやん!

生命感を生命感が再認識してただけやったんやん!

欲しかった幸せも。この生命の躍動を感じることやったんやん!

あーーーーー!

しかもなんもせんでもこの躍動はへることさえなかったんやーーん!

減らへんから、死ぬこともないやん!
死がないってことは生もないやん!
ってなって来ましてね。

ワタシどころか、生も死も観念でしかないってことが明らかになるワケでして、
分離もなく、
躍動と完全な静寂が完璧に同居している「それ」。
それだけがあるだけやったんです。

「それ」をわかるための、何かしらの条件も、担保も必要なかったんです。

つまり、わかることすら必要がなかったんですね。
わかろうということ自体が単なる誤解やったわけでね。

ということは、もう意味を探る意味もなく、
わかろうとしてたエネルギーは、単なる観念の中で起こる同化のエネルギーにすぎなかったワケでして、
この同化のエネルギーが、観念にさらなる観念を作り出しては引っ付けて、をやってただけでね。
行為者のいない一人相撲を見せられとっただけかいな!っていうねー。
空の雲の動きをマジマジと見ながらその雲の形の意味づけに躍起になってただけかいな!
っていうね。

んなことも明らかになってくると、もう悟りとかwww空(くう)とかwww。
んなもんもぜーんぶ観念ですからー。ザンネーン。古いけどー!

てなことになってくるワケでしてね。

まあ、そういう単なる当たり前が明らかになることを、単に悟りと表現されてただけでして、
それが言葉として大げさになっとっただけだったんですね。

なので「それ」とは、忘れてた「当たり前」が明らかになるって感じでしてね。
その感じが夢から覚めるっていうのと似てるんです。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

コントールできまへん!

f:id:takuteto:20170409232742j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

コントールできまへん!
って言われましてもね。

わたしゃ自分で動いてますし。
さっき御飯作って食べましたし。

高尚な感じでボヤかして言われてもよくわからんし、

ってね。

思いますよねぇ。

これね。なんでぼやかして言うねん。
もっと具体的にコントロールできへんをわかりやすく言ってくれんとねぇ。。。

っていうことなんですが、それをなかなか上手く言えない背景としましてはね。

まず、わかりやすく言ってくれ!
と思う大前提にはね。

わかって理解することで自分のものに出来る。
という確固とした信念があるはずだと思うんですけど、

その信念というもんが、単なるイメージなんですよん。
って話でしてね〜。

この信念っていうのは固定観念のようなもんなんですけど、
この固定観念がさらに観念を生み。
そうやって生まれた観念がさらなる観念を生み出すんです。

コントロールが出来るていうのも、ある種、一つの観念なんですけど
どちらかと言うと、
自分という中心点がある。って言う観念から生み出された

あらゆるものは固定化できる。
物事は定義される。
定義された物事は理解される。
理解されたものを組み合わせると新たな理解が生まれる。

といった観念の一つでね。

ちゃんと分かるように教えてよ!
っていうのも、上記の観念があるから出てくる疑問だったりするんですよねー。

なのでね。
そういった観念を土台として説明を、観念がないという土台としての説明で試みる。
っていうのが、ムリゲーだったりするんですよね。

ちなみに、
理解に理解を重ねてもそこにゴールはなく、観念が積み重なっていくだけであって、
その観念に対して信じる度合いの強さがリアリティを付与していくわけでして、、、

そうやって感じているリアリティーは、個人の中に「現実感!」っとして
デーンって居座りますので、
他の人にも当然のように自分と同じ「現実」があるような錯覚も生み出すんです。

それが、あまりにも頑なになってくると、

「〜であるべき」なのに、あの人はその「〜べき」に沿ってない。
間違っておる!許せん!
っていう感情が強くなったりします。

なので、あんまりコントロールできるか出来ないか論を言うよりは、
まず、自分がなにかしらの観念を信じとりゃせんやろか?

当然の現実だと思ってたけど、ホンマにそうやろか???

ってね、ちょっと疑ってみるのがいいと思うんですよね。

方向性を180度変えてみるってかんじですかねー。

ーーー

と、前置きをしておきましたが、
せっかくなので、コントロールのことについても書いてみたいと思います。

どないやねん!
ってことなんですけど、、、


さて、

イチローはワシが育てた!
じゃなくて、
ワシが行為をした!

っていうのってね。

反応に対する後付けだったりするんですよね。

反応っていうのは、何かといいますと、
「単に起こってること」なわけですが、

風が吹いて草木がゆらゆらと動いておる。

ってなことと似てましてね。

草木は自分でゆらゆらと動いてるわけじゃなく、
風が吹いてるからその関係性でもってゆらゆらと動いてるようにみえるわけであって、
その風も自分で起こしたろっ!って思ってるからじゃなくて、
何ていうか温度が高いところと低いところが混ざり合う過程で、
高い空気は上の上昇して低い空気は下に潜り込もうとする?
みたいな???

勉強できない僕はよくわかりませんが、まあ、そういった「反応」で空気が動くわけでしてね。

じゃあ、この温度というのは、太陽が燃えとって、熱エネルギーを発散しとって、その熱が地表を温めて、太陽の燃えとる光が届かない夜は、暖められた地表が冷やされて???

みたいなことがあって、温度が動くから風が起こるわけで???

とまあ、説明しようとしだすと延々とその関連性を解き明かしていく作業が続くわけですが、
まあ何ていうか全部がひとつながりでありまして、個別で存在しているモノはないんですよね。

そういった感じをまあ、僕は強引に流れのようなもんとか、雲のようなものとして表現しているわけなんですけどね。

いずれにしてもそういった流れに強引に境界線って言う仮定の線引きをして個別のモノとしての認識をしてるわけですが、この認識が幻想のようなものだというわけなんですね。

幻想だからといって反応がなくなるというわけじゃなく、その反応を固定された観念としてとらえているこの観念の部分が幻想だというわけですね。

ま、そういった反応と同じように、身体も
お腹が減ったっていう感覚が起きたり、眠いといった感覚が起きたりするわけでして、
こういった感覚は誰かがコントロールしてるわけでもなく、それでいて完璧に起こってるわけなんです。

えーっと、、、一時間後に空腹感発動!のタイマーをセットして、
おっと食べた後はちゃんと眠くなるようにしなきゃ!

みたいなことをやってるわけでもないわけですよね。

でも、腹が減ったから何を食べようか?ってワシがやっとるねん!
ってね。
思うかもしれませんが、しょっぱい物がほしい。とか
甘いものがいい。
っていうのも反応として起こっておりまして、その反応に対して記憶が反応してるわけでしてね。

これって、温度で風が起こって風が草木を揺らしてっていうのと同じようなもんでね。

全てはひとつながりですから、そのひとつながりが連鎖して起こってる様にみえますけど、
連鎖というよりはひとつながりなんですよね。

この連鎖のように見える様子も「時間」といった観念が捉えた固定観念なんですね。

心臓の鼓動をコントロールしているわけでもなく、
鼻毛が伸びる感覚をコントロールしているわけでもなく、
そもそもそういった行為者がいるわけでもないわけです。

いたら、そういった個別の「自分」という器官があるわけでもなく、
あらゆる体の器官もひとつながりに連携していて、身体も外の環境と密接に連携しているわけなんですよね。

空気がなきゃ呼吸器官は呼吸できませんし、空気は地球の引力や空気の材料となる窒素だとか酸素だとかがないと作られないし、、、、っと、またキリがない連携が続くわけです。

どう説明しようが、その説明に終わりはなく、それでいてひとつながりでしかなく、部分をピックアップしてみても、それは学問の対象にしかならないわけでしてね。

よっしゃ!わかった。
もうええ。
身体のことは置いといて、
じゃあ、思考や感情はコントロールしてるんじゃないのんか???
と言いますと、それがもし可能なのであれば、悩みなんてものはこの世から無くなるわけでしてね。

一分後にどんなことを感じるんだろう?ってのもわかりませんし、そもそも感情だって身体と密接にれんけいしとるわけで、どこからが感情でどこからが身体か?といった境界線も曖昧でしてね。
だって境界線が元々ありませんのでね。

結局のところ、身体にしろ、思考にしろ、感情にしろ、
そういった個別のものは、実はなくて、これも流れの一部をピックアップしてるだけと言いますか。

そういった中で、それでもなんとかコントロールしよう!っていう思いが起こったりもするわけなんですけど、これもある種の防衛本能として単に起こってるだけでしてね。

そこへの固執が剥がれ落ちた時、どうあがいても流れに任せるしかあらへん。
ってなことが徐々に明らかになっていき、

あ、、、この固執が抵抗となって苦を生み出していたけど、その苦も幻想のようなもので実体はなく、境界線もなく、、個別の何かが有るわけでもなく、、、流れというのも一つの解釈であって、そういったものもなく、、、
固定化されるものは一切ないけど、固定化の材料になっていた在るというものは在るわけで、、、
それが分離されていなくて、全部であり、「それ」としか表現できず、
まさに、無いけど在る。無ではない空(くう)。それでいて、それは色(しき)そのものでもあり、、、、。

ってな感じになっていくわけですね。

うーん。ややこしいけど、難しく考えず、
わからんままに落ち着いてみると「それそのもの」に溶け込んでいくんですよねー。

かといって、わからんは自分がわかることもありませんし、
わかろうとする衝動の中で何かをコントロールする自分がいるという感覚があっても全然いいわけでして、自分がどうにかなるというのも幻想のようなものでして、、、。

ってなことなんですけどね。

とまあ、こんな話をしていくと終わりが無いわけですが、
もし、何かを頑なに握りしめていて、それをしんどく感じているのなら、
そのしんどさを解く鍵になるかも知れません。

そのしんどさも、そしてしんどさを感じている自分も、
自分が抱えている罪悪感も、、、
全体の流れの中で完全に許されているわけなんです。

なので、そんな自分に「大丈夫なんやで」「ええねんで」っと言ってあげて欲しいわけでしてねー。

あ、、、。

とりとめがなくなってきたので、今日はこのへんで〜。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

行為者はいないっていわれてもぉ〜

f:id:takuteto:20170409232708j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

お花見もそろそろ終わりですかね〜。
今年も、特にお花見ということはせず、いつも歩く道すがら、
桜の花を見上げるくらいしかしてないんですけど、、、

サクラっていう名前がなんかいいですね~。

だって英語だと、チェリーブロッサムになるわけですのでね。

なーんていうか、「桃の花」みたいな感じで、
フルーツと直結してしまうじゃないですか。
名前が、、、

まあ、日本語でもさくらんぼって言いますけど、
さくらんぼの花ってならないですからね〜。

桃の花見て喜んどるで〜。ってなると、なんか桃食いたい。。。
ってなりますからね〜。

さてさて、
よくね。
「行為者はおらんのですよー。」
ってね。
僕も言ってたりするんですけどね。

行為者はおらん。だから大丈夫なんです。

ってねー。

そう聞いたとしても、
「いやいやいや。。。あんたはなんかそんな実感があるから安心でおられるのかもしれませんけど、こちとらそんな実感もあらへんのですから、、、
全然大丈夫や無いんですけど、、、」

ってねー。
思ったりしません?

なんとか信じたとしてもねー。
どうにもならんですよねぇ。

そもそも信じる、信じないの話じゃないですからねー。

くっそー。
なんで自分がこんな目に!
あ、でも自分なんてそもそもいないんやった!

よーし、
自分はいない、自分はいない、
だから大丈夫、だから大丈夫。。。

ってね。
念仏を唱えてもどうしようもないわけですからね〜。

いやね。
ホントおらんのですよ。行為者なんて。
単にそう見なしているだけでね。

なので、見なしている間だけあるように見えてるわけなんですけどね。

じゃあ、どうしたらそれがわかるようになるのん?
ってなことがとーっても気になるところだと思うんですけどね。

行為者がいないことを自分がわかるようになる。

っていうのがもうすでに理屈が破綻しとるわけですからねー。
「自分で自分がいないことを理解するぜ!」
ってことですからね〜。

どうしようもないわけなんです。

なのでね。

もうこれは一旦、自分を明け渡すしか無いんですよね。
「それ」へ明け渡すんです。

それが帰依ってわけですね。

なにも、自分を明け渡すからには精進料理食べて節制しなきゃならんとか、
修業の道に入るとか、
だれかしらの先生の言うとおりにするとか、グルに仕えるとか、
そういうことじゃないんです。

ただ、自分の中で、根源である自分に自分を捧げると宣言してみるって感じです。

そんなことしたら全部失ってしまうやないか〜!
って思うかもしれませんけどね。

その思いをただ見つめてみるんです。

ホンマに何か持っとるんか?
持っとるというのもイメージなら失うっていうのもイメージだけとちゃうんか?
ってね。

失うという恐怖があるだけなんちゃうんか?
って見てみるんです。

もし、自分を明け渡すという宣言が自分の中で本当になされたのなら、
全ては単なる恐怖からの自作自演をしとっただけ。

なーんも失わへんのんやんか。
っていうか、なーんにも手にしてさえいなかったんやんか。

ってね。
そういう単なる当たり前が明らかになってくるかもしれませんよ。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

イエース!フォーリンラブ!

f:id:takuteto:20170409232654j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

おはようございます。

皆さんご機嫌な毎日をお過ごしでしょうか??

まあ、あれですねー。
フォーリンラブってオサレな言い回しですね。

日本語だと何になるんですかね?
「月が綺麗ですね」になるんですかね?

恋をする。
じゃなくて、
落ちるってところがオサレじゃないですか!

ねぇ。。。

で、
冒頭から何を浮かれたことを言っとるねん。
ってことなんですけど、

つまりね。
人って自分でコントロールして自分で生きてるって言うわけじゃない。
自分で決めてるようで、ホントは自動的に起こることが起きておる。
ってことが言いたいんです。

そもそもねー。
心とか体とかね。
そんなもんがコントロールできるようなもんやったら、
もう悩みなんてないはずなんですよ。

だって、ええことだけ考えとったらいいわけですからね。
わざわざ悩むようなこと考えなくてもいいわけですし、

コントロールはできないわけなんです。

自分の人生だと思ってることもねー。
コントロールしてるように見えて、実はしてないんですよね。

フォーリンラブだってそうですよねー。

うーん。そーだなー、
明日からはこの人に恋をしようかしらねー。

なんて思ってするわけじゃないですからねぇ?

落ちるわけですよね。

落ちるっていうことは、
つまりはコントロールを離れとるというわけですよね。

でもねー。
どうしてもコントロールできないってことは恐怖だったりするんですよね。
その恐怖っていうのは、
自身を守ろうとする本能から来とるわけなんですけどね。

それが本能が過剰に反応しちゃうと、恐怖心が増してきて、
よりコントロールしなければ!みたいな観念に絡め取られちゃって、
本来の流れを滞らせるような感覚になったりするんだと思うんです。

するとね。
その滞りが余計にコントロールしなきゃいけないといった観念を生み出し、
流れに逆らおうとすることによる摩擦が、ストレスのように蓄積していったりしてね。

妙に自分がギクシャクしていったりするんですよね。

ある程度の恐怖感は仕方のないことなんですよね。
だって、それが自然な本能なわけですから。

でもそれを許せない。受け入れられないとする観念が、
どうしてもコントロールしようと流れに抵抗しちゃうとねー。

その抵抗の時に起こる摩擦によって消耗しちゃう。

またそうやって、摩擦が起きていることによって、
なんとかコントロールができてるんとちゃうか?

みたいな錯覚も起こしてたりするんですよねん。

でもそれって、大河の流れに対して、手で水をせき止めようとしてるのに似てるんじゃないかな?
なんて思ったりもします。

その手の中だけを見たら、なんとか流れをせき止めてるように見えるかもしれないけど、
流れ自体は全然止められてない。

みたいなねー。

あるがままでいるっていうのは、荷物を降ろしてホッとリラックスする感じなんですが、
その荷物の重さって、流れをせき止めようと、大河の流れにかざしている手のひら。

その手のひらに押し寄せてる流れの重さのようなものなのかもしれません。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

あなたは光。光そのものですの。

f:id:takuteto:20160920121103j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

あなたは光そのものですの。
そしてあなたの前に見えてる世界は全て、あなた自身の光の反射なんです。

あなたは光であるがゆえに、その輝きを知っているのですが、自分自身がその輝きだということを忘れているから、その輝きを探す旅をしているの。

デュフ・・・
デュフフフフ・・・・

というわけで、
スピっぽい話から初めて見ました。

おはようございます。
タクさんです。

僕のこのブログでねー。
観念を見てみるんですー。

ゆーてね。
書いてたりするわけなんですけど、
この観念って結局のところ、
目の前の世界、その全部が観念なんですよね。

捉えた時点でね。

つまり、あなたが見てる世界。
その状態が全て観念なんです。

一昔前に「鏡の法則」ってなのが流行ったのを覚えてるんですけど、
見てる世界っていうのも自分の観念による投影みたいなもんなんですよねー。

それでいて、その観念も含めてそれそのものでもあるんです。

これの説明としては、冒頭の光の例えはよくできてると思うんですよね。

それそのものとは光のようなもので、
すでに自分は光なんですよね。

でも、何かを捉えようとした時、光は光を認識できないわけです。

光は周りを照らし、あらゆるものを反射させます。
その反射されて光も、自身の光と同じものなんですよねー。

で、それだけなら何ら問題はないんですけど、反射されたものを認識しようとすると、光と影の輪郭でもって理解しようとしてしまう。

そこで、影という存在を作り出すんですよねん。
で、この光と影の輪郭を観念として認識する。

みたいなねー。

本当にあるのは光だけなんですけど、その中で観念というイメージがあって、
その観念が物語の素材。
おままごとの役割のようなものになって、
物語を展開していく。

ってな感じでね。

でも、そうやって、
いろんなが起こっているように見えてても、あるのはその光だけ。
「それ」だけなんです。

ということは、この観念に同化せずにそのまんまにしておけば、
ただある「それ」に溶け込むことになるんですけどねー。

この観念への思い入れが強いとそれが信念となり、
この信念によって感情というエネルギーが発生するんですよねー。

信念が否定されると恐怖や怒りとなり、肯定されると嬉しい感じになるわけです。

信念の中でもひときわ大きいのが私がいるという観念から出てきた「ワタシ」という信念なんですよね。
それが損なわれると、全てを失うような恐怖が生まれます。
死ぬんちゃうか?死んだら「それそのもの」である光すら消え失せるんじゃ無いか?
といった観念も生まれるわけですね。
そうなると自分という信念を強化し、守るための観念も生み出し、そして信念として強化していき、さらにその信念から新たな観念が生まれ、、、と繰り返していくんですよね。

感情は観念、信念に同化させる接着剤のような役割を果たすんです。

なので、
感情というエネルギーが起こってるときは、ははーん、何かしらの信念に対する同化が起こっとるんやな?って気づくチャンスでもあるんです。

あらゆる信念は、観念が強化されたものであって、この観念も、作られた単なるイメージでしかなく、大物の観念である「ワタシ」というものも単なるイメージでしか無いとなってくるとあらゆる観念のウソさが見抜かれ、「それ」だけが残るんです。

それが光であり、反射された光も光そのものと同じものであって、その光の中の観念の中で一人相撲をしてただけやーんってのが明らかになるんです。

それでいて、どんな信念を持っていてもそれは全く自由でもあることも明らかになるんですよね。
なので最初っから完璧であり完璧から離れたことも無かったんです。

光そのものに溶け込むとそこに影は無くなるんです。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします

意味づけをやめた。だから、もう迷いはない

f:id:takuteto:20170406234956j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

僕がせっせと書いているように見えてるこの記事もね~。
まったくもって意味はございません。

非二元の話だって、まーったく意味は無いんですよね〜。

ありとあらゆるものにも意味は無いんです。

だから、意味のないものに、理論を積み重ねてみても、
どこにもたどり着かないんですよね。

このへんがリーラとか言われるゆえんなのかもしれませんね。

で、
この意味の無さへの明らかさが、意味への執着から解放してくれるんですよねー。

昔のキャッチコピーで、

「ケンカをやめた。だから、もう負けない。」

って言う名キャッチコピーがあるんですけど、
確かパルコの広告だったかなぁー?

これ風に表現するとなると、
「意味づけをやめた。だから、もう迷いはない」

って感じになるんですかね。

ちなみに、僕が好きな俊逸のコピーのひとつで
サントリーの「なにも足さない」ってのがあります。
多分前にもどっかで書いてますけど。。。

その一部分が以下です。

朴訥だが明晰。シンプルだが、奥が深い。なんという矛盾だろう。静謐があって、覇気がある。ゆったりと、鷹揚で、大きな流れと、縦横無尽に闊歩するものとが、同居している。なにも足さない、なにも引かない。ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと。

かーっ!!!!
カッコイイ!!!

このコピーはウイスキーのコピーですけど、
言ってることはまさに「そのまんまのそれ」のことやないですか!

あまりに単純だからこそ複雑。
大きな流れに身を任せるしか無いのと同時に自由闊達。
完全な静寂であり、喧騒。。。

そのまんまのそれ。。。

ですもんねー!

・・・

ま、ちょっと話がそれてしまいました。


さて、
意味がないっていうと、なんか救いがない。
みたいなね。

そんな風に捉えられちゃったりすることもあるかもしれませんけど、

意味がないっていうのは、自由闊達!ってことなんですよねー。

だって、意味に縛られなくても良いんですから!

意味という杖無しでは立つことも、歩くこともできなかったのが、

杖無しで走り回れる。走り回っても良かったんやーん。

ってことに似てるのかもしれません。

もう、意味という許可はいらないんです。


これはどういう意味があるのだろうか?

この先はどこにたどり着くのだろうか?

このことに、一体何の意味があるのだろう?

なぜ、こんな目にあったのだろう?

なにが悪かったのだろう?

・・・

もしかしたら、そんな風に、
常に「意味への許可」を求めちゃったりね。

してた人もいるかもしれません。

そしてそれが、ちょっとした罪悪感として残ってたりねー。

「意味がない」という明らかさが、何かを失わせるということもありません。

なぜなら、僕らはなにかを手にしたことさえなかったんですから。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

▼facebookページ作ってみました。
もしよろしければ、「いいね」をして、Facebookページのフォローお願いします