Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

社会にくっつきすぎると自分を見失う

はじめに

どもー!
タクさんです。

さてさて、最近ふと思ったんですけど、
「君のような人間が…」とか
「あなたのような人間が…」
っていう言い回しってあるじゃないですか。

あれ、ちょっと変だと思いません?

人間と言葉をあえて個人につけるということは、人間じゃない場合があるからということになるはずで、ということはつまり、世の中には人間のフリをした寄生獣や人間になりたがってる妖怪が混ざってるということになります!

うーん。
だから、そう言った題材の映画や漫画がたくさんあるんですね!

ま、さておき、この人間という言葉なんですが、

「人間」って、当たり前に“個人”を指してるって思いますよね。
でも本来はちょっと違ったみたいなんです。

昔は「人間」って、人と人の“間(あいだ)”って書くくらいだから、
個人じゃなくて人と人が織りなす社会や関係性を表す言葉だったらしいんですよね。

この社会っていうのがちょっと曲者でして、
僕ら人ってそもそも一人じゃ生きていけない動物ですから、
「自分に都合の良い社会」のお互いに押し付け合いが始まってしまうんですよ。

やれ資本主義だ!共産主義だ!
右翼だ!左翼だ!
って言い合ってるのも、
子供の頃に「鬼ごっこやろうぜ!」「いや野球の方がいい!」ってモメてたのと、
案外やってることは同じなのかもしれませんね。

人は「霊(ひ)」+「処(と)」

この「社会」っていうのも、
思考と言葉によって作られた架空のルールの集合体みたいなものです。

言葉がなかったら大掛かりな「社会」なんて概念自体存在しないかもしれないし、
僕らが「人間」であるっていう感覚も、ある意味言葉によるものだったりするわけです。
で、肝心の「人」って言葉なんですけど、
これには面白い説があるんです。

「霊(ひ)」+「処(と)」で、「霊が宿るところ」。
だから“人”っていうのは、ただの肉体じゃなくて、
霊が宿ってる存在ですよってことですね。

でも、この“霊が宿る”って部分だけなら、動物だって命があるのは同じじゃないですか。
じゃあ何が違うのか?といいますと、
「言葉を操る」ってことなんです。
昔の人は、言葉をただの音じゃなく「言霊(ことだま)」として扱ってました。

だから言葉には力があって、
扱い方を間違えると危ないからちゃんと気をつけろよーっていう教えが、
古い時代には結構あったみたいなんですよね。

つまり、
人は“霊が宿ってる”だけじゃなくて、
言葉を使って意味づけして世界を作っちゃう存在だというわけですね。

ただこれは、違うからって別に優れてるわけじゃありません。
むしろ言葉を使うからこそ、思考を暴走させたり、
魂を置いてけぼりにしたりする面倒くささが増えてるんです。

僕らの1番の誤解は「人」は動物よりも優れているという錯覚なんでしょうねー。

言葉は火のようなもの

言葉って確かに便利ではあるんですが、言葉を使うことで、僕らの心の奥にある魂を置いてけぼりにしちゃうデメリットがあるのかもしれませんね。

そして思考が暴走しちゃうと、心の奥とズレちゃって苦しみを生むわけです。
だから言葉って、火みたいなもの。

火って便利だけど、扱い方を間違えると燃え広がって大変なことになるじゃないですか。
だからこそ昔の人は言葉に注意を払っていたのかもしれませんねー。

言葉=思考。だからこそ。

言葉は思考です。
思考は、放っておくとどんどん増殖していきます。

そして、
心の奥の感覚と全く違う方向に切り離されていくわけです。

僕らが疲れたり、苦しくなっちゃうのも、
結局は言葉によって紡がれたストーリー世界が、
心の奥の魂から切り離されて、
社会のルールにぺったりとくっつきすぎてるからなのかもしれませんね。

そして自分らしさを見失ったかのような錯覚を感じちゃったりしてね。

みんなにこう思われるかもしれない、
あの人にこんな人間だと思われるかもしれない…
そんな問いを、頭の中で繰り返してたりしてねー。

言葉にはそもそも真実性はありません。
風が当たった感触を言葉に変換することなんてできないですし、
心の奥で感じている感覚も言葉に置き換えることなんてできないんです。

だからこそ、言葉を一旦置いて、たまには生の感覚だけを感じ取ってみればいいと思います。

 

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