Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

気づきとは冷や水である

はじめに

はい!
おはようございます。
タクさんです。
「気づき」ってあるじゃないですか。
この気づきってどんなものなの?って話なんですが、
これって「ピシャっと顔にかけられる冷や水のようなもの。」なんじゃないかな?って思うんですよね。

「うわっ!そういうことか!」
ってな感じで、今までなんとか自分をよりよくしようと奮闘してたり、過去の思いに逡巡してたり、こんな状態の自分で、将来はちゃんとやっていけるのだろうか?と思い悩んだりしてたところに、ピシャッと冷や水をかけられることで、

あ!なんでそんな今じゃないこと。ありもしないことに延々とエネルギーを注ぎ込んでたんだろう?

って目が醒める衝撃みたいなものがあるんです。

こういうのって、ぬるま湯みたいにじんわりくるものじゃなくて、「うわっ!」って目が覚めるような衝撃を伴うことが多いんじゃないかなーって思うんです。

もちろんその前段階ではじんわりがあって、ある程度のじんわりが「あっ!」の瞬間を呼び込むのかもしれません。

朝目覚めて、まだぼんやりと夢の世界もひきずってるときに、いきなり冷たい水を顔にかけられたら、一瞬で目が覚めるじゃないですか?
 まさにそれと同じで、気づきっていうのは、今まで当たり前だと思ってた世界の見方が一気にひっくり返るような瞬間だったりする。
「あれ? これまでの自分の考えって、ただの思い込みだった?」って感じるんですよね。

そもそも考えって全て思い込みなので当たり前なんですが、どうしても僕らって考えの中でも現実のものと思い込みのもの、この2種類が存在するって錯覚してたりするんですが、そんなものはなくて、全て等しく平等に思い込みだったんです。

そして、我に帰るんです。この場合の我とは、思考の中の「私」ではなく、いわゆる「真我」ってやつですね。

・気づきが真我に帰る

この気づきがどうして「我(真我)に帰る」ことにつながるのかってことなんですが、

普段の僕らの日常って、そのほとんどが「自分」というフィルターを通して体験されてるじゃないですか。
「私はこう思う」「私はこう感じる」「私はこれが好き/嫌い」みたいな感じで。
そして、同時に、思うことや感じることと同等かそれ以上にこの「私」っていうのにかなりこだわってたりするんですよね。

集合写真なんか撮った時には、真っ先に自分を探して、その写真写りがどうなってるのか気になったりするでしょ?
「私」がどのように見えるのか?ってものすごく気になったりするものです。

そこで冷や水をかけれれるんです。
「この『私』って本当に実体があるものなの?」
ってね。

気づきが起こると、「ん? そもそも“私”って誰?」ってなるんです。

今まで当たり前に思っていた「私」というものが、ただの思考の塊だったんじゃないの??
ってなってくると自然とその奥に意識がうつるんです。

真我っていうのは、言葉で説明するのが難しいんだけど、別に真我という私みたいなものが売るわけじゃありません。
だから、探しても見つからないんです。

これって、ざっくり言うと「変わらない本質」みたいなものですのでね。
普段の「私」はコロコロ変わるけど、その奥にずっと変わらないものがある。そしてこれって「ああ、もともとここにいたんだな」って帰ってきた感覚になる感じなんです。

・気づきは突然やってくる

「じゃあ、その気づきってどうやったら得られるの?」って思考ちゃんはここでもまた、「私」が何かを得よう!そしてこの気づきをコントロールしよう!ってしたがるんですけどねー。
これがまた厄介で、気づきってコントロールできるものじゃないんですよ。

多くの場合は、思いがけない瞬間にやってくるんです。
思いがけないってのがミソなのかもしれません。
「考えよう!」ってのがむしろジャマになってますのでねー。

だから、「気づきは求めて得られるものではなく、向こうからやってくるもの。」なんて言われているわけです。
ですのでやれることと言えば、門を閉ざさずにあけておく。
つまりは、心を開いておくことくらいですかねー。

・気づきを受け入れると楽になる

この気づきってのは変な話「自分」からの目覚めのきっかけって感じなんですよね。
つまり今までの「自分」というものが幻想だったってわかるわけです。
これが楽なんですよ。
だって、ほとんどの苦しみって「自分」に執着してるから起こるんですもんね。

「私は成功しなきゃいけない」「私はこう見られたい」「私は幸せにならなきゃいけない」ってかんじでね。
そんな思い込みが苦しいんです。
でも、「そもそも“私”なんていないんじゃ?」って気づくと、そういうプレッシャーがスーッと消えていく。

なんで持たなくても良いプレッシャーを持ってたのか?ってことなんです。

もちろん、これは「じゃあ、何も考えずに生きればいいのか!」って話でもなく。
むしろ、必要なことは自然とやるし、やらなくてもいいことには執着しなくなる。
「あれもこれも頑張らなきゃ!」っていう強迫観念から解放されるから、むしろ生きやすくなるっていうね。
これは本筋というか副作用としてそんな楽さもあるよってことなんです。

・気づきのためにできること?

ここまで読んで、「じゃあ、どうすれば気づけるの?」「何をしたら良いの?」って思っちゃうのが思考ちゃんのサガなんですが、気づきのために“できること”は何もないんですよねー。そもそも求めて得るものでもなけりゃ、努力で手に入れるものでもないんです。

でも、あえて言うなら「ただただ全てを受け入れて在ってみる。ただ観てみる。」これくらいかもしれませんね。

何かを変えようとするんじゃなくて、ただ今のままの自分を観察する。
湧き上がる感情や思考を「ああ、こういうことを考えてるんだな」とか「今、こんな気持ちになってるんだな」って、ただみてみる。これが呼び水になってくれるかもしれませんねー。

 

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