
はじめに
どもー!
タクさんです。
「あーいやだなー」
って思う時ってあるじゃないですか。
人間関係とか、今後の身の振り方みたいなことって悩みが尽きないですもんねー。
そうするとあっという間に思考にまみれてしまうわけですが、そんな思考をよくよく観察してみると、イヤの裏にはまた何か別の思いがあったりして、それは不安だったり、こうしたいという思いだったりがあったりします。
そして、そんな思いの奥を観察してみると、
寂しさだったり、怖さだったりしてね。
その寂しさや怖さの奥には、なにかしらの「こうあるべき」みたいな思いがあって、
その思いの奥には、また別のこれは譲れない!といった感じの思い込みみたいなものがあったりしてねー。
思考って表面の部分だけが起こっているのではなく、ものすごーく層が重なっている。
なんてことを観察できるんですよねー。
そうするとねー。
ちょっと愕然とするんですけど、こういった悩みの種ってもうほとんどが外から植え付けられた概念由来だったりするんですよねー。
これはこうすべき。
あれはそうあらなければならない。
みたいなね。
そして、自分の好きなものとかお気に入り。みたいなものがかなり置いてけぼりになってたりしてね。
そして、そんな思いもゆっくりと丁寧に剥がしていってみると、もともとそんな思いなんて持ってなかったことを知るんですよねー。
自我と真我
よくね。
こういった思考や思考の思い込みによって作られた私を自我だったりエゴと表現されたりしますよね。
また、そんな自我やエゴの奥にある、思考の色がついていない自分。それを真我と表現されていたりします。
もちろん、他にも様々な定義があったりはするんですが、その話は置いておいて、
いわゆる思考を観察してみて、その思考を掘り進めるとその奥には光り輝く真我がある。
なんて思い込みもあったりするんじゃないかなーって感じます。
思考の層はバウムクーヘン
これってね。
ちょっとバウムクーヘンに似てるなーって思います。
思考の層が重なっていて、
そうやって一層一層めくっていくと、思考の奥にはまた思考。
さらにその奥にも、またまた思考。
って感じでね。
そして最後までめくっていくと、そこには何かがあるわけじゃなく、
ただの空洞になっているって感じです。
バウムクーヘンの真ん中って、空洞じゃないですか。
あんな感じで、なーんにもないんです。
この何にもなさこそが「真我だ!」ってね。
「真我」の看板を立てることもできますけど、それもまた新しい層の一つになっちゃうんですよね。
観察者すらいなかった
さらに面白いのは、そうやって思考の層って観察できるじゃないですか。
そして観察している自分っていうのも感じられると思うんです。
だから自分で観察をしつつこのバウムクーヘンの層を剥がしていくわけですが、その「観察」自体も、途中でスッと消えちゃうんです。
観察する私ってのもまた層のひとつだったんですよねー。
それも最後はそれもスッと溶けていくんです。
そうなると、
思考って、私が生み出してるわけじゃないし、私が注目してコントロールしてるわけでもない。
実体もないし幻想のようなものであって、ただただ、ふと現れては消えていくだけなんです。
思考には色もない
苦しい思考も、怖い思考も、嬉しい思考も。
全部が「勝手に」現れてる。
しかも苦しいも怖いも嬉しいも、これらの色もあるように見えているだけで実際はないんです。
思考は仲間を呼び、
「いやだなー」が「どうしよう」に発展して、そこから「やっぱり無理だ」に発展して、しまいには「人生終わった」にまで連れていってくれたりするわけです。
層をどんどん重ねて、時には同じところをループさせて。
それを延々と繰り返すんですねー。
でも、それだって「私がやってる」んじゃないんです。
そして「観察者の私」すら、そこにはいないんです。
「何もなかった」と聞くとちょっとガッカリするかもしれませんが、実際はそれが一番ホッと安心できる、ふるさとに戻ってきた感じなんです。
バウムクーヘンみたいに思考の層を味わいながらも、中心の“なさ”に一休みする。
その“なさ”こそ、ぼくらのふるさとだったんです。
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