Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

智慧も大事だけど、知識も大事。

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はじめに

あいよっ!
おはようございます。
タクさんです。

まー、ぼくは知識というのは幻想なんですよー。
ルールなんですよー。
みたいなことをよく書いているのですが、
だからといって、

そっかー!知識なんてなくて良いんだー!ってね。
知識なしで信じ込んじゃう!
なんてことをしてると、思いっきりはめられちゃいますよー。
みたいなね。
そんな話を今日は書いてみたいと思います。

ルールの中で遊ぶ場合には、ルールを知っているものが優位に立ちます。
だから、ルールの中で遊ぶからにはルールをしっかり知っているということも大事なんですよね。
ただ、ルールって意外と誰も教えてくれません。
なので、ルールを知らないものはそのゲームの中ではルールを知っているものに
良いように手のひらで転がらされてしまうわけです。

ま、それもそれで、一興なんですけどね。
どうしても非二元の話をルールとして捉えようとすると、
これもまた、ややこしいループにはまり込んでしまうこともあるんですよねー。

 

宗教革命でバレちゃったデタラメ

ちょっと話は変わりますが、
宗教革命はドイツから始まったということはご存知でしょうか?
宗教革命とは、今まで教会がやりたい放題していたことがバレてしまうという革命です。
それまで、教会は、天国にいきたきゃ、免罪符を買いなさーい!
ちゃんと僕たちに寄付をしなさーい!
聖書にはこう書いてありますよー。
ってね。
やりたい放題していたんですよね。
さらには、庶民は文字を覚えるのはよくない!とさえ言っていたんです。
しかも聖書は教会に大事にしまってあって、だれもちゃんと読ませてもらえなかったんですよね。
だから、牧師さんのいうことは聖書にのっとったことであり、逆らうと地獄行きっ!
なんてことがまかり通っていたわけです。

では、なぜこのやりたい放題がバレてしまったのか?
そして、なぜドイツからこの革命が始まったのか?
といいますと、
それは、印刷技術がドイツから始まったからなんです。
そして、この印刷技術によって聖書がバンバン発行されたんですね。
庶民も聖書が読める時代になったわけです。
そのせいで、免罪符なんて嘘やないか!
あれもこれも嘘やないか!
ってバレてしまったというわけです。

このせいで、教会(カトリック)の力はどんどん失われていったんですねー。
もうだれも、免罪符なんて信じないですからね。

知識がないものは、いいように扱われる

ま、この事件も知識がないものは、いいように扱われていたという典型ですね。
もちろん、知識や頭の中のストーリーは仮想現実のようなものです。
僕らはこの仮想現実を共有することで共通の世界観を作り上げるんです。
この共通の世界観の中では、ルールを作るもの、そしてルールを知っているものが一番強い!
ということになります。
サッカーだってそうですよね。
オフサイドのルールがよくわからないと、なぜいつも反則にされてしまうのか全然わからん!なんてことになるので、勝てる試合も勝てませんからねー。

もちろんもっと強いのはルールを作る人です。

なので、ルールなんて幻想だから必要ないのねー!って言いながら、ルールの中に飛び込んでいくと、そりゃー負けちゃうわけです。

だから、なるほどー。ここではこういうルールが適用されているのね!
ということを知ることは、ルールによって運営される人生ゲームの中では大事なことなんですよねー。
ここを知らないと、知らない間にゲームに参加させられる。
なんてことにもなってしまいます。

信じるのではなく確かめるということ

自分はどんなルールを採用しているんだろう?
ここでは、どんなルールが採用されているんだろう?
っていうことは、自分で確かめてみるしかないんです。
ルールの特徴は、言葉によって説明されるものです。
また、信じていること。これもルールの特徴になります。
概念や観念、これらもルールの一部ですし、ストーリーもルールによって紡がれています。

だから、こういった非二元の話もね。
どうしても言葉で説明することになるんですが、
その言葉をそのまま受け止めるのではなく、
言葉を聞くことによって、「あっ!」って今まで自分が掴み取っていたルールがほどけていく。
そんなほどきのツールとして使えば良いと思うんです。
掴み取っていた思いやルールがほどけたとき、なんでもない今が残ります。
そこにただ、在ってみるんです。
そのトリガーとして使えば良いので、そうならない言葉をストーリーとして理解しようとしなくても良いですし、ましてや信じようとしなくてもいいんです。

もうすでにあなたは、「それ」である

ま、そういうわけで、
次元が上昇するとか、波動が高いとか低いとか、マントラとか高次元のマスターとか、
特定の周波の音に浸るだとか、アセンションだとかハックションだとか龍とかドラゴンといったものは、
すべてストーリーです。
そのストーリーがあなたの中の何かを楽にさせてくれるのなら、その楽さの中にただ在ってみれば良いですし、
そのストーリーが楽しいのであれば、大いに楽しく遊べば良いんですけどね。
でも「悟り」や「それ」がこれらのストーリーの先にあるというものではありませんし、
高次元の何処かに「悟り」や「それ」があるということでもありません。
これは、もうすでにあなたは、「それ」であるということです。
そこに気づくことを悟りと呼んでいるんです。
だからあらたな条件は必要ないんですよね。

マントラや修行やスピリチュアルの教えの数々。
これは、そういうルールで遊ぶエンタメなんです。
それを知っておかないと、悟るためにはマントラもらって、波動を上げて、、、、。
ってね。
延々とそういうことを繰り返しちゃいますのでねー。

「それ」は高次元ではなくゼロ次元です

ある種の法則もまた、ルールの一部です。
法則には様々なものがありますが、因果の法則もまたルールの一部です。
この因果の法則はカルマとも呼ばれています。

いわゆる次元というのも概念の一部ですので積み上げれば積み上げるほど、
それは、たくさんのカルマを積み上げているものとも言えます。
これらは積み上げれば積み上げるほどややこしく複雑になるんです。
そして、その複雑さは無限に積み上げることができるんですよね。
なので、ここの探究には終わりはないんです。

あるがままの全て、「それ」は高次元のどこかにあるのではなく、
むしろ0(ゼロ)次元にあります。
次元という考え方もまた、ルールの一部ですので、次元という考えもまた、
ストーリーの一部ですのでね。
正確にいうと、次元という概念を採用していないまっさらな、今ここにある。
というわけですな!

 

takuteto.hatenablog.com

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