Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考に巻き込まれないコツ06

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もふもふのウサギやワンコなんかをみて、
「きゃー!まるで、ぬいぐるみみたーい」
なんてコメントに、一言あるタクさんです。

あれって、変ですよねぇ。
だって、ぬいぐるみの方が寄せてきてるんですからねぇ。

どうも、おはようございます。

さて、昨日の続きを書いていきたいと思います。
よかったら以下の記事を先に読んでいただけると幸いです。

 

takuteto.hatenablog.com

takuteto.hatenablog.com

takuteto.hatenablog.com

takuteto.hatenablog.com

takuteto.hatenablog.com

 

全てを自分に置き換える錯覚

判断にツッコミを入れることで、その判断は思考へと進むことはなくなり、
思考に巻き込まれることもなくなるわけですが、

「これは大変だ!これは一大事だ!これは危機だ!」
といった判断には、なかなかツッコミを入れることができなくなったりするんですが、
その際には、感覚を感じてあげれば良いよ〜。ってなお話の続きですね。

僕らは「自分」という概念を作った時点で、目の前の世界を「自分」と「自分以外」に分断します。
分断しないと、「自分」という概念は作れませんからねー。
そして、世界から分断された「自分」という小さな存在を作っちゃうんです。

ちなみにね。
僕らは全てそのものです。この全てであるということは潜在的に知ってるんですが、
自分という概念が作られた途端、この全てが「自分」であるという錯覚をしてしまうんです。

ちょっとややこしいですね。

この宇宙の全ては個別には存在していません。
個が存在するというのは全くの錯覚なんです。
全てが全体として存在しています。
分断されていないんですね。
そしてこのことへの知は生まれつき持っているんです。
逆にいうと、個別という概念は元々は持っていないんですよね。

知識ではなく智恵として、私は全てであるということを潜在的に僕らは知っているんです。

でも、概念上でつくられた「自分」にその全てを閉じ込めてしまうんです。

だからね。
「自分」が損なわれると、全てが終わる!といった錯覚からくる恐怖を感じてしまったりするんです。
この錯覚と、生物的な本能としての防衛本能がうまく絡まって、死への恐怖というのが演出されたりするんです。

ま、この辺りの詳しい説明はまた別の機会に譲りますが、
僕らは「自分」が損なわれる。もしくは損なわれているという思いに危機感を感じるわけです。

だから、足りないという思いに悩んだり、誰かに承認してもらうことでこの足りないを埋めようとしてしまうんですねー。

比較という錯覚から目覚めるおまじない

この足りないという錯覚も分断・分離の概念から生じているものなんです。
そして、この足りないという思いを加速させるのが、「比較」です。
この「比較」は「判断」をするときに使われるモノサシなんです。
ちなみに、ダイレクトな感覚は、まだ判断が起こっていないものですので、
そこに戻ってくることで、この判断に惑わされることはないんですけどね。

感覚だけを感じてみるというのが、難しく感じる場合は、この比較の概念が邪魔しているんです。
なので、この比較の概念に邪魔をされないおまじないを唱えるのがオススメなんです。

このおまじないは、
ニコッと笑って、「私はこのまんまでもう、オールオッケー!」と唱える。
ということです。

これは、おまじないですが、真実でもあります。
だから、胸を張って唱えれば良いと思います。
根拠は必要ありません。

このおまじないを唱えてから、感覚を感じてみると、ダイレクトな感覚が感じられやすくなりますし、観ることも捗ります。

そして、判断を見つけたらそこにツッコミを入れてやれば良いんです。

「うはっ!かしこになろうとしてる!アホもかしこも無いのに!ウケる!可愛い!」
ってな感じでね。

可愛いウサギがおっちょこちょいなことをしてる様子を観るような感じで観てあげると良いと思います。

あらゆるメソッドは準備運動でしかない

まーそんなわけでして、「思考に巻き込まれないコツ!」として色々と書きましたが、
ご紹介したコツはあくまでも観るための準備運動のようなものです。
あらゆる修行と言われるものと一緒です。
これらは全て観るための準備運動なんです。あくまでも観ること。こっちが主役ですのでね。
あまり準備運動にこだわる必要はありません。

僕らができることって、観ることしかありません。

ですが、実はなーんにもしなくても、もうすでに観ているんですよね。
つまり、観るということは能動的な行為ではなく、単に、観ていることに気づくことでもあるんです。

ここで言っている観るとは、意味づけするということではありません。
ついつい僕らは、何にでも意味づけしようとしてしまいますが、その意味づけとは分離して整理するということなんです。この分離して整理されたものを使って僕らは妄想を膨らませるわけです。

そういった妄想を取り去ること。これが観るということであり、すでに観ていたということへの気づきなんです。

感覚を意味付けしたりせず、ただそのまんまに感じるとはまさに瞑想そのものです。
そういう意味では、瞑想とは行為ではないんですよね。

その瞑想に入るための準備運動としての瞑想もあったりするので、ちょっとややこしいんですけどね。
座ったり目をつぶったり、何かを唱えたり、伝授されたり、呼吸に集中したりというものは、瞑想の準備運動なんですねー。

というわけで、今回の思考に巻き込まれないコツのお話はここまでです。
また、同じことを書くと思いますけどねー。

というわけで、また明日お会いしましょー!

 

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