
はじめに
はいどうもー!
タクさんです。
さてさて、思考って妙に理屈っぽいところがあるじゃないですか。
っていうかそもそも理屈だらけですよね。
そしてこの「理屈」っていうのは、いわゆる「ルール」や「基準」のようなものなんです。
何か物事を考えるとき、頭の中には自然と「こうあるべきだ」「こうするべきではない」という一種の法則のようなものが浮かび上がってきます。
これ自体は、人間が社会で生きていくための一つの仕組みといえるかもしれません。社会が成立するためにはある程度のルールが必要ですし、それを個々人が頭の中で再現していると考えると、理屈っぽくなるのも理解できなくはありません。
ところが、この理屈が高じてくると厄介でしてねぇ。
僕らの心に自由をもたらすどころか、逆に縛り付けてしまうんです。
何かを選択するとき、何かを判断するとき、その背景には必ずと言っていいほど理屈が存在します。
「これは正しい」「これは間違っている」といった判断基準は、実はほとんどの場合、僕らの中に蓄積されたルールに基づいているんです。
そしてそのルールというのは、どこかで誰かが勝手に作ったものである場合も多いんです。
僕らはそれに気づかないまま、それを絶対的なものとして受け入れ、そのルールに従わなきゃいけないと無条件に思い込まされているんです。
そんなこんなでね。
ありもしないルールを、思考はどんどん上乗せされていきます。
それが積み重なると、僕らはがんじがらめに縛られているような錯覚を覚えるんです。
いや、錯覚というよりも、実際に縛られていると感じると言った方が正確かもしれませんねー。
思考が生み出す理屈は、一見すると私たちを助けてくれるように思えるけれど、その実、僕らを縛り付ける制約になっているというわけです。
・答えを求めると行き詰まる理由
そして「正しさ」や「間違い」という概念が、そもそもどこから生まれてくるのかというと、これもまた理屈の中にしか存在していないんです。
理屈という枠組みの中で、「正しい」とか「間違っている」という言葉がはじめて意味を持つんです。
ですがそこに答えを求めてしまうと、どこかで必ず行き詰まるんですよねー。
なぜなら、理屈は常に新しい理屈を生み出し続けるからです。
ひとつのルールに納得すると、また新たなルールが生まれ、それを守らなければならないというプレッシャーがやってくる。これが延々と繰り返されていくんです。
そもそも材料に限りがあるものではなく、イメージに過ぎませんからねー。
いくらでも延々と生み出されるという塩梅です。
このルールが増えれば増えるほど、僕らの本質というか、本当にやりたいこと。
生きがい。これは魂と呼んでもいいかもしれませんが、その魂は縛られることになります。
これはまるで、自分自身が自分を縛りつけるための網を編んでいるようなものなんです。
その網がどんどん大きくなるにつれて、僕らはますます動きづらくなり、自由を失っていくんです。
・安心感への執着
何か新しいことを始めようとするときや、何かに挑戦しようとするとき、
「でも、こういうルールがあるから」
「こうしなければならないから」といった理屈って頭をよぎっちゃいますよね。
そして足を止めてしまう。
これって、考えてみると本当に不思議なことですよねー。
なんで自分たちで作り出したルールに縛られなきゃならんのか?って話ですよ。
もしかすると、これは僕らの安全欲求や安心感への執着からきているのかもしれませんね。
そもそも思考ちゃんは不確実な状況や未知の状況を嫌う傾向があります。
そのため、何かしらの基準やルールを作り、それに従うことで安心感を得ようとするんです。ルールに従えば、自分の選択が間違っていないという保証が得られる気がする。そしてその安心感が、僕らを理屈の中に閉じ込めてしまう。
でも、僕らが本当にオモロイ!と感じ生きたいと願う人生って、理屈やルールの中にないですよねぇ?
「よっしゃー!ちゃんと言いつけを守る人生を送れたぞー!」ってならないですもんね。
ですので、理屈なんてものはほっぽりだしておいておけばいいんです。
すると、自分のオモロイってのがムクムクと湧き上がってくるものです。
「こうしなければならない」「こうあるべきだ!」ではなく「こうしたい」ってのを感じてみるんです。
理屈というのも一つのツール。いわゆる道具のようなものですからね。
それをどう使うかは僕ら次第なんです。
必要以上に理屈を重ねてがんじがらめになるのではなく、本当に必要なルールだけを大切に採用すればいいんです。
そうして初めて僕らは、無駄な理屈から解放された自由を得るんです。
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