Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【因果の終わり】目の前の奇跡がよみがえる時

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【はじめに】

ほい。
おはようございます。
タクさんです。

今日も今日とて、やっていきたいと思います。

この「今日も今日とて」という表現なんですが、
なんか流行ってるらしいんですよね。

この「とて」ってどういう意味なんだろう?
よくわからないけど、
今日も今日とて、、、と言われればなんとなく意味はわかる。
っていうのはちょっと面白いですよね。

ま、意味としては、いつも通りの日常ってことです。
場合によっては、ちょっとため息混じりの飽き飽きした日常って場合にも使われるそうです。

ちなみに、この「今日も今日とて」とは土佐日記や徒然草にも使われている表現なんだそうですが、どこで使われているのかはわかりませんでした。

みなさん。
今日も今日とて、素敵な日常をお暮らしでしょうか?

 

【全ての瞬間は常に新しい】

さて、いつも通りの日常というものは、実は存在していないんですよね。
なぜなら、全ての瞬間に繰り返しなどというものは存在していないからです。
だから、世界は常におニューなんですよね。
もう常に新しいんです。
そして、あらゆるものは常に変化をしておりますので、
そもそも新しいと古いというものも存在してないんですねー。

ただ、
常に新しく、常に変化するものを僕らは掴み取ることができません。
理解することもできないんですよね。

だから、僕らはこれを掴み取ろうとする時、
仮想の条件を当てはめるわけです。

数学でいうところの、xを当てはめる。
みたいな感じですかね。

この仮想の条件というものが、因果なんです。

【因果とはこれがこうなったという仮想条件】

全ては常に新しく変化をしている。
これがこの世の実相なんですが、あえて、これを区分けし、
区分けした部分の中で、これがこうなった。とさらに区切る。
この区切りに利用される観念が、因果という仮想の枠なんですねー。

大河の流れのなかで、ここからこの部分!
といった感じで、架空の枠を設けて、この枠の中で波がやってきては去っていった。
とやるのと似ております。

そして、この因果という仮想条件で、時間という物差しも登場するわけです。

実際には存在しない時間という仮想の物差しは、仮想の枠の中でだけ物差しとして使用されるというわけなんです。

そして、そうやって掴み取られた因果は記憶に収納されていく。
というわけですね。

【記憶を通して世界を見るから同じ日々のように感じる】

ま、記憶というのも、こうしたらこうなったみたいな完全なストーリーとして収納されるのはあくまでも一時的であって、僕らが心の奥に溜め込んでる記憶ってのは、いわゆる雰囲気のようなものなんですねー。
この辺のことの詳しい説明はまたの機会ということにさせていただくとして、
僕らはこの溜め込まれた記憶を元に、すでに完全に出来上がっている目の前の世界を再構築するというわけです。

実際に目の前の世界をそのまま掴み取るというわけではなく、それを再構築して作り上げているんです。

そして、この再構築が流れ作業のようにこなれてくると、習慣として、
だいたいこういう区分は、こういうこと。
というように同じ世界を作るようになるわけです。

まー、説明が周りくどくなりましたが、
これが、僕らの目の前の世界が、いつも通りの日常のように感じてしまう理由なんです。

【目の前の奇跡がよみがえる時】

奇跡とは、僕ら人間の力やあらゆる法則にあてはまらないものです。
人智を超えたものに触れた時、ぼくらは奇跡を感じるわけです。

つまり、あらゆる枠に当てはめられない!ことが奇跡なわけですねー。

これって言い換えると、枠に当てはめずにいると、目の前の全てがもう奇跡そのものなんですよね。

あらゆる物差しを採用せず、ただ在ってみること。
それが、目の前の世界の奇跡がよみがえる時なんです。

どのように世界を掴み取るか?ではないんです。
「私」もふくめてもう「それ」そのものですからね。
掴み取る必要はないんです。

掴み取る必要がないんだ!と知る時、枠に当てはめられない全てがよみがえるんです。

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