Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あなたが生きているのか?生きているがあなたを表現しているのか?

f:id:takuteto:20201009215109j:plain

はじめに

はいよー!
おはようございます。
タクさんです。

僕らの思考に現れてくる思いってねー。
いわゆる意識層のものですよね。

無意識のものは現れてきてくれませんからねー。

でも、もうすでにあれこれと無意識の部分で、
思いというものは加工されているんですよね。

そして、加工されたものがぽんって出てくるわけです。

そして、この出てきたものを僕らは最初のものだ!
って勘違いしちゃうんですよね。

もう物語は僕らが始まったと思うはるか以前から始まっておるんです。

僕らは、途中からドラマをみているようなものなんですねー。
だから、僕らは頭の中の物語でさえも、
ちょっと的外れな見方をしているんです。

でね。

数ある的外れな見方のなかでも、
結構大きめな勘違いの一つは、

「私が」生きている。

という勘違いなんです。

もしね。
ホントーに、私が生きているのだとしたら、
この私は生きているとは別のところにいなきゃならないですからねぇ。

でもこれって別では存在していません。
私と生きているは切り離せませんからね。

そして、私と生きているがイコールであるのだとしたら、
ここにコントロールするものがいるはずがないんです。

生きているがあるから、「私」があるわけですが、
この「私」と「生きている」は同じなんですね。

そして、この「生きている」というものは、
分離できるものじゃないんです。

 

常に起こる変化は分離することはできない

目の前のイチゴを食べたとき、
そのイチゴは自分なのか?イチゴなのか?
ってねー。
そんなのどっちでもないですよね。

じゃあこのイチゴは、収穫される前はイチゴなのか?イチゴの木なのか?
ってね。
これもどっちでもありません。

イチゴの木とつながっている土と太陽の光。
これらは別に存在しているのか?
というのも、これまたどっちでもないんです。

これはねー。
全てはひとつなんだということでもないんです。
ひとつですらないんです。
数というのもまた、概念に過ぎないんです。

勘違い

常に変化を繰り返しながら繰り広げられるイノチの働きは、
個別で表現する場合、ものすごく多くの部分を端折られてしまいます。
端折られた部分はないわけじゃなく、端折らなきゃ個別に表現できないから端折られるわけです。
だから、変化の一部分だけを摘み上げて、個別に存在しているという錯覚をする訳でして、
この錯覚の中に、「私」という概念も存在しているんです。

そして、この「私」という概念に、元々持っている全ての感覚を同化しちゃいますのでね。
まるで、「私」がいなくなるということは、全てが終わることだ!
ってな思いも湧いてくるわけです。
この思いも、この感覚も、ありとあらゆる全てが、私という器の中に入っているんだ!

みたいなねー。
そんな勘違いをしちゃうわけです。

するとねー。
この「私」が消えてしまうわけにはいかないので、「私」は強化しなければならないものになってしまうんですよね。

この勘違いをもとに、私には、何かが欠けている。何かが足りない。
という錯覚をするんです。

  

takuteto.hatenablog.com

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!