もひひ。
先生に対してお母さん!と呼んでしまったことは誰しもあると思うんですけどね。
ぼく、男の先生にお母さん!と言ってしまったことがあってですねぇ。
その男の先生は確かにちょっと女性っぽいところがあったんですよ。
なので、ついね。
お母さん!って言ってしまったんですが、その時の先生の微妙な表情は、
なぜか今でも覚えています。
というわけで、
あいみょんさんが、
冷たい空気を噛み締めて歩く今日という日になんと名前をつけようか?
なんて歌っていますが、
僕は、先生をお母さんと読んだ後のなんともいえない空気感になんと名前をつけようか?
と考えているタクさんです。
おはようございます。
さてさて、
もうねー。
確かめれば確かめるほど、あるのは気づき。気づきの意識。気づきの空間。
全部一緒のことなんですけど、
これしかあらへんがな!って話なんです。
これは言い換えれば映画のスクリーンのようなものですし、
広大な海とも例えられるわけです。
この気づきの空間にあらゆることが起こりますが、その全ては名もなきことです。
ここに起こるあらゆることで、この気づきは傷つくことはありません。
どんなに大きな波が起こったところで海自体が怪我をすることはありませんし、
どんな強烈な映像を流したところでスクリーンが破れることもありませんもんねー。
もし、起こってくる思いに傷つくことがあるとするならば、
それはもう一つの思いである「自分」という思いにくっつけられた意味づけ。
これが否定されるようなことがあると、この思いは損なわれた!と言ったような錯覚を演出するんですよねん。
この「自分」という思いにはいろんな意味づけがくっついています。
いわゆるアイデンティティのようなものですが、
普段僕らは目の前の世界をこの意味づけを通してみています。
言い換えれば、あなたから発せられる光に目の前の世界が照らされているようなものです。
この自分の光について、許されないことがあるのだとすれば、
その許されない光に照らされた対象もまた許されないものとして写ってしまうわけですねー。
なので、世界の平和を望むなら、自分を許してあげて、許された光で照らしてあげることなんですよねー。
でね。
僕がよく、アホなままでいいんですよ〜。
わからんでいいんですよ〜。
なんて言ったりしているわけですが、そうすることで、
そんな自分を許し受け入れることで、自分が許されるからなんです。
許されたあなたを通して照らされた世界は、許された世界として光り輝きます。
するとねぇ。もうあえて照らさなくてもいいんじゃないのん?
という気にもなってくるんです。
僕らが照らしたがっていたのは、問題を照らしておきたかったんですよね。
そしてこの問題は、「自分」たいしてつけられたイメージ。
このイメージを損なう思いが起こった時に発生するんです。
アホでいいんだと許されちゃうと、「もしかしてわしはアホなのではないか?」と悩まなくて済みますので、そこを照らす必要性が消えるという寸法ですね。
アホでいいなんて思うと、自分は本当にアホになっちゃうんじゃなかろうか?
ってね。
恐れたりするかもしれませんが、そうはなりません。
それどころか、思いという呪縛から解放されて、なんで今までこんなにもいろんな思いに縛り付けられていたんだろう?単なるイメージなのに、、、。
って気づきより広い視野が目覚めます。
さらに、照らすことをやめた時、その時は全てが照らされるんです。
逆にね。
自身の光であらゆるものを照らすことができますが、
照らすことをやめた時、すでに全ては明るく照らされていたことを知るんですよねん。
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