Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を自分の中に閉じ込めちゃうということ。

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自分というものを定義するとなると、やっぱりその範囲を決めなきゃならなくなりますよねぇ。

でね。

僕らって普段はあんまり意識をしてないくせに、

心が重たくなった途端、

「はい、『自分』の心が重たくなった!軽くしてあげるにはどうすればイイか?」

とか、

身体が不調になった途端、

「はい、『自分』の身体の調子が悪い。不摂生したせいだ。」

ってどうも、調子が悪い時だけ自分を持ち出しちゃったりする事がよくあるもんです。

まあ、僕なんかはお調子者なので、調子がいい時でも、
「よっしゃ!ワシが育てた!」ってやっちゃいがちだったりするんですけどねー。

いずれにしろ、自分というものを意識した途端、そこに自分というテリトリーが発生し、テリトリーの外と内という分離が生じるわけです。

 


でも、目の前に現れている世界は、テリトリーを設定しようが、しまいが、
変わらずに、なんの影響も受けずに展開しているんですよね。

元々、そこには分離もなく、イノチがイキイキと表現されているんです。
この表現は、まさにオープン!です。

何も隠されていません。

この分離のなさを、イメージ内の分離感が隠しているわけです。

つまり、イメージ内に作られた設定を参照して、その設定に沿って世界を見ちゃうわけですよねー。

これは、おままごとと全く同じ原理です。

泥だんごを団子とみなし、もぐもぐと食べたふりをし、

あらかじめ決められた役割を演じるわけです。

おままごとを真剣に遊ぶのはいい事です。

社会はそうやって、決められた事で進んでいきますので、

別に、この決められた事は偽の世界なんだー!って大騒ぎする必要もありません。

そうやって社会を形成するのも、人の習性ですし、

その習性もまた、全ての中の一部であり、自然なことでもありますからねー。

だから、目一杯おままごとを遊べばいいわけですが、

あまりにハマりこんじゃうと、そのおままごとだということを忘れて、

その設定に対して悩んだりするわけです。

そんな時には、もしかしたら、

全てである「自分自身」を、不当に貶めてはいないだろうか?
と自問してみたらいいんです。

こうじゃなきゃダメだ!

ああじゃなきゃダメだ!

っていう思いは、すでに完璧である自分に対する冒涜なんです。

そうやって、自分を貶めるから、貶められた自分が苦しんでるんです。

そもそも、できないことはできなくていい事かもしれませんし、

やらなきゃダメだ!って思ってるから出来ない。

なんてことにもなってたりしますのでねー。

あれこれ考える前に、まず、自分を過小評価して、貶めてないか?

そんなところを見てみたらいいと思うんです。

誰かのモノサシや、誰かから聞いたこと。

そんな観念に自分を閉じ込めなくてもイイんです。

そして、「自分」という観念の中にだって、自分を閉じ込めなくてもイイんですよねん。

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