Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

生きてるだけで丸儲け

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自分のね、良い部分とか得意なこととか、そういうのって認めるのは結構簡単だと思うんですよ。
よっしゃー!オレすごいっ!ってね。

でも、できてない部分、ダメだと思ってる部分。

そういうところこそ、それでもう素晴らしいっ!ってね。
思ったったらええんですよね。

これが、中々そうは思えない。っていう思いがあるから、
じゃあ、もっと良くならなきゃならない!
みたいな思いが出てきたりするわけなんですけど、
実際のところは、もうそのまんまで素晴らしいんですよねー。
それを自分が認めてないだけでね。

で、それが認められないと、
より良くなろうっていうのが行動原理になってくるんです。

そうなってきますと、あらゆる行動には意味がなきゃならん!
みたいな思い込みが付与されていくんですよねん。

これにはどういう意味があるのか?
この意味は、ちゃんとより良くにつながっておるのかー?
ってチェックし出すんですね。

そして、どれもこれも、これの意味はなんだろう?
みたいなことになってもうて、もう意味に自分を奪われる。
意味に人生を奪われる。みたいなことになってきて、

しまいには、生まれた意味はなんだろう?
人が存在する意味はなんだろう?
ってね、
考えちゃったりね。

そもそもねー、意味なんて必要ないんですよ。
そんなん最初っからないわけですからね。

意味にこだわってると、そのままの物事が概念に歪められてしまっちゃったりするんです。

で、あれはおかしい!これはおかしい!
意味が繋がってないもんっ!
ってな考えにハマっちゃうというかね。

僕もこのブログなんかでは、
悟りなんてものは無いんですよー。てなことを書いてたりするんですけど、
そういう、悟りなるものに意味があるという思いがあるから、
まだ、自分は悟ってない。
みたいな思いが生まれてきたりしてるわけでしてねー。
なんか、悟りに特別な意味があるように感じちゃったりしてね。

無いんですよ。
そんなん。

意味にこだわらなくて良いんです。

そして、意味なんていらなくって、
意味なく起こってることを受け入れられると、
そのまんまが受け入れられるんです。

ああ、意味っていうコンセプトを自分で作っておきながら、
そのコンセプトにがんじがらめになっておったりするんやー!

てね。
気づくんです。

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