Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

主体以前の主体

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気づきだけがあります。
なんてよく言われております。
僕もゆーとります。

でも気づきと表現しちゃうと、どうにも
気づいている自分。
とか、
自分が気づいている。

この何かの対象に気づく誰か。

みたいなね。

そんな印象もあたえちゃったりするので、
気づきですらない何かだけがある。

「それ」だけがある。

といったような言い方をしたりもするんですけどね。

この「気づき」ってどうにもつかみどころがなくて、わかりにくいですよねぇ。

ま、掴んだりわかったりすることじゃないので、
そりゃそうなんですけどね。

ちなみにこれっていわゆる全てを見ている自分。
観照意識ともちょっと違うんですよね。

自分と言う主体があるという概念以前の主体。
それが気づきみたいなもんなんですが、

主体があるから客体があるというわけでもないんです。

今日は、
このことについてちょっと説明を試みてみたいと思います。

自分が気づくとか自分が何かする。
みたいな感覚ってのが結構しつこく残ってたりするんですけどね。

こいつがしつこいもんだから、
例えば一瞥体験をした自分。
とか
悟った自分。

みたいなね。
そんな勘違いも起こりやすいんです。

でも、
悟りを開いた特別な誰か?
とか、
一瞥体験をした誰か?
みたいな誰かってのはいません。

なので、
別に特別なことじゃないんですよね。

何で誰か?とか自分ってのはいないのか?
といいますと、
自分と言う概念は何かに先立たないからなんです。

何かとはなーに?

といいますと、
起こってることです。

熱いもの触ったり、
冷たいモノを触ったり、

何かの音を聞いたり、
なんらかの感情が沸き起こったり、

匂いを嗅いだり、
味わったり、

そういった起こったことに対して、自分っていうのは先立たないんですよ。

先立たないってのは、風上におけない。
みたいな意味です。

自分ってのは風下なんですよね。

あつっ!

とか、

つめたーいっ!

とかね。

そういうのを感じた瞬間って自分はいないんですね。

その後で、自分があつかった!
自分が冷たかった!

といった概念を付け加えてるんです。

なので、
自分は何かに先立たないんですね。

でも気づきはあるんです。

じゃなきゃ、冷たいとか熱いとかも起こりえませんからね。

でもって、自分はいないので、
気付いてる誰かはいないが気づきはある。

という事になります。

でね、
この気づきを自分という後から来た主体と混同させる事により、
自分が気付いてるという認識を持ってしまっている。

みたいなことをしているんですよね。

ここがボタンの掛け違いの最初のかけ違いみたいなもので、
自分がいるという事は自分以外がいるはず。
という考えでもって、
気づいていることに、これは自分でこれは自分以外。
主に、身体に関することは自分で、それ以外は自分以外の外で起こっていることを、
自分の内が認識している。

みたいな、ややこしい解釈が付け加わったりしてるんです。

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