ゆーっくり、息を吸って―。
ぷはぁ~と吐く。
また、
ゆーっくり、息を吸って―。
ぷはぁ~と吐く。
そーすると、
今考えている思考とか感情とかを、
一旦おいておくことが出来ます。
そして、それを置いておくとね。
感情や思考が無くても起こってることは、明らかに見えてますよね。
意味づけされる以前の音、意味づけされる以前の景色が広がっています。
この見えているのはもう明らかです。
この明らかさが、あまり明らかに感じられないのだとしたら、
まだどこかに、分離があるからなんですよね。
意味づけされる以前の何かを自分が見ている。
みたいなね。
そして、その分離感が、意味づけを求めるんですね。
で、これは車の音で、今日は雨が降りそうな景色だ。
みたいにね。
発展していくわけですが、
そうなったらまた、
ゆーっくり、息を吸って―。
ぷはぁ~と吐く。
また、
ゆーっくり、息を吸って―。
ぷはぁ~と吐く。
ってね、
置いておいたらいいんです。
そーっすっと、
明らかさだけが残ってます。
声なき声が、
「大丈夫やでぇー。」
って声掛けてくれています。
すかさず分離感が、
「どういった根拠で大丈夫なんじゃー!」
と騒ぎ出します。
それでもただ、明らかさを掴まずにそのままにいると、
分離感は行き場を失います。
元々、分離感みたいなモノも無かったことさえ、
明らかさの中に包まれていきます。
すかさず分離感が、
「おお!これが体験か???」
「この感覚が悟りなのか???」
「とうとう体験したのか?わかったのか??」
とか騒ぎ出します。
それでもただ、明らかさの中にたたずんでいると、
悟りなんてものも無かったんやねぇ~。と、
明らかさの中に包まれていきます。
あるのは、なーんにもない「それ」だけ。
ちょっとした時間に、
ゆーっくり、息を吸って―。
ぷはぁ~と吐く。
また、
ゆーっくり、息を吸って―。
ぷはぁ~と吐く。
そして、一旦おいておく。
全ては自分が見ている。見れている。
自分と言う感覚さえもただ、見ている。
見ているものと、見られているものに距離は無く、
それは、同じものでしかなく、
見ているものは、その意味を失います。
ただ、明らかな「それ」だけが残るんです。