人生はロールプレイングゲームみたいなもの。
ロールプレイングゲームには、ゲーム上の目的は決まっているけど、
ゲームの範囲内での選択の自由はプレイヤーにゆだねられている。
魔王を倒しに行くのもよし、只々ゲーム上の世界を散歩するのも良い。
みたいなね。
そういた説明がスピ系なんかではあったりするんですけどね。
でもって、こういった説明って、運命はあるのかないのか?について説明されているときによく使われてたりします。
ゲーム上の目的が宿命のようなもので、
ゲーム内での選択権はプレイヤーにあって、運命は自分で選ぶことが出来る。
みたいなね。
一見、なるほどねー。
って思ったりもしますけど、僕が言ってるのはそういう事じゃないんですよね。
それはそれで、スピリチュアルのひとつの物語というかね。
宿命や運命があるとかないとかいうのも含めたひとつの物語が起こってるだけと言いますか。
そもそもそういったゲームのプレイヤーなんてどこにもいませんよね?
っていう事なんです。
運命とか宿命とか言うのを決める誰かがいるわけでもなく、
そういった運命とか宿命を負う誰かがいるわけでもないんですよね。
そういうのがあると思っている間だけ、そこにそういったお話を見ているだけであってね。
こういう話も分離がある。という前提の設定が無きゃなりたたない話なんですよね。
目の前にあるモノと自分。
一見、主体と客体があって、別々にあるように見えますが、
見てるという事はその見てるという気づきがあって、
みている自分がいると言う感覚も同様に、
自分がいるという気づきがあるわけで、
あらゆる起こることは、この気づきの上に現れては消えたりをしているわけです。
そして気づきは何が起ころうが、何が消えようがずっとそこに在るわけなんですよね。
なので、その気づきしかなく、気づきの不在というのは確かめられることってできないんです。
僕らは、生まれてこの方、イメージ上で現れる仕組み。
物語の仕組みを叩きこまれてきているので、
赤ちゃんの頃は当たり前であった「気づきしかない」という事実を忘れちゃってるんです。
イメージ上の仕組みがオママゴトのルールのようなものなんです。
ネコさんは運命とか宿命があるのかないのか?と悩んだりしません。
そんな仕組みを教わってないからです。
ですが、気づきは教わることなく最初から、今ここに在り続け、そこから離れたこともないんです。