Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

怖かっただけかいっ!

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前にもねー書いたかもしれませんけど、どうしても自我ちゃんは、どうにも悟りとかいうものを難しいものと考えたりするんですよねー。
誰かが悟るとか無いんですよ。
なのでね。悟りなんて無いんです。
この辺は耳タコかもしれませんけどね。

みたまんま、目の前のそのまんまがもうそれそのものです。
探してたそれです。
目の前にあるこのペットボトルの蓋。
これがもう「それそのもの」なんです。

え〜!
その蓋になんも至福感とか愛とか感じないんですけどー。
わけがわかんなーい。
って思うかもしれませんけどね。

それは多分、これは取るに足りないペットボトルの蓋であって、
自分が探求してることは、すんごいことであり、こんな取るに足りないもののはずが無い。っていうね。そんな観念があるのかもしれません。
もっとそれそのものは壮大なものや無いとあかんっ!
みたいなね。


このフタはペットボトルのふたや!
すなわちとるに足らないものなんや!

っていうね。
そういう観念があるっていうだけでね。

ほんまはフタでもなく、なんていうかフタっぽい何かが見えてる。
イメージの中でそう見えてるっていうこの、「気づき」みたいなもんがあるだけなんですよね。

今読んでいただいているこの文字も、シミのようなもんです。
画面だから、単なる黒い点ですよね。

そして、この黒い点のあつまりに気づいているわけですよね。
で、この点の組み合わせを文字と見なし、その文字から来るものを一つの意味と見なし、
そして、その意味とは何なのか?と考えを巡らせているわけでね。

ま、その一連の流れも、ただ起こってるというわけなんですねー。

そういうわけですので、いったんこの「気づき」にね。
在ってみればいいと思うんですよ。

するとね。
なんていうか、この「気づき」しかないわけですので、在ってみるといった行為者も「気づき」に溶け込むんですよね。

気づきをつかむんじゃなくて、そのまんまにしてみるって感じですかねー。

行為者が溶け込むという書き方をしましたけど、最初っから行為者がおらんことが、単に明らかになったってだけなんですけどね。

そうやって、知らず知らずのうちに意味を付け加えてたもんが
明らかになっていきますとね。

なんやねん!
怖かっただけかいっ!

っていうねー。
そんなことが明らかになってきたりするかもしれません。

誰に明らかになるねん!っていうかね。

誰にも明らかにならないんですけど、これも単にあると思ってたもんが、最初っからなかったということだけなんですけどね。

そうやって聞きますと、有ると無い!っていう二元性で想像しちゃいがちだったりもすると思うんですけど、もうこれは書きようがないからそう書いてるっていう書き手の都合でしか無いわけでしてね。

無いのであれば、無いんだ!
っていうのも、一つの信念になっちゃいがちなんですけどね。

そうやって、有るとか無いとかをつかもうとする動きがね。
色々と物語を作るわけでして、
だからといって物語を抑え込むという話でもなくてですね。

すぐにつかもうとするよねー。
っていうことが単に見抜かれるってことなんですねー。

好き嫌いも、罪悪感とかもそりゃー普通に出てくるんですけど、
そこに妙な重みがないんですね。
深刻さみたいなもんです。

単に在ってみると、その深刻さのウソさが明らかになってくるって感じなんです。
明らかにするんじゃなくてね。

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