Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分をより良くするためだった信念がいつしか自分の主人になっちゃう?

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どんなことでも楽しいーにやればいいと思ってます。
でも何か特定なことを信じたらうまくいくとか、そういうことじゃなくて信じるのなら自分の奥にある気づきやと思うんです。
自分なんておらんのでしょ?って事も言葉を信じるんやなくて確かめて見なけりゃ始まりませんしね。

私はいないとか、自分がいないってのも結果論みたいなもんでしてね。
信じたりするもんでもないと思うんです。
自分がいないと言う話を信じれば信じるほど、
「私はいない」っていう信念が強化されたりもするわけでねー。
で、ついには「私はいない」私をなんとか自分のものにしようとしちゃったりね。


そんな妙な信念が出来たりするんです。

社会のルールでも、子供の頃に親に言われたことでも
ああすべき。
こうすべき。
みたいなルールが、いつしか信念のようなもんになったりするんですよね。

それならわかりやすいんですが、
自分が取り組んできた方法。
その方法がスピリチュアル的なものであったり、修行的なものであったり、
なんでも良いんですけどね。

そういったものも、たのしーくやってるつもりが、いつしか信念っぽいものに変わっちゃったりすることもあったりするんですよね。

自分の気づきの方じゃなくて、なんていうか自分の外に何かしらの拠り所を得ようとしてみたり、自分で組み立てた方法でも考え方でも、それへのコダワリが強くなってきたりして、そうやって信じたもんは、信念になってきて、そうなるとその信念は守らなきゃならんものになっていくんですよねー。
その信念が強くなればなるほど、他の人に同意を得られなければならんことになるんですね。


そうなってくると、いつしか道具だった信念が、自分の主人になってしまう。みたいなことになってきたりするんです。

例えばね。
自分がこう思ってることとはまるっきり逆のことを思ってる人がいるとしてね。
そんな時に、ピクっと来ることありません?

そのピクってのについてくる心の重さというかザワツキみたいなもんがが、大きれば大きいほど、何かしらの信念に対するコダワリが強いってことがあると思うんですよね。

自分のやってる方法が一番いいはずだ!って感じのものだったり、
むむむっ!こいつはエセ覚者なのではなかろうか?みたいな思いだったり、
〇〇は至高のものだ!って考えだったり、
スピリチュアルはダメだ!って思いだったり、

色々とあると思うんですけどね。
どんな思いも主義主張も起こってくるものなので、それはそれでぜーんぜん良いんですし、
どんなことでも好き嫌いがあるのも全然いいんですし、
それを主張するのは良いんですけど、
それへのコダワリみたいなものが強けりゃ強いほど、なんていうか心のなかでグワッって怒りのようなものが沸き起こってくる。なんか違和感が襲ってくる!
みたいなことがあったりするとね。

あ、なんかわし、妙なコダワリを持っとるのかもしれん。
てな具合で、気づいて見るチャンスかもしれません。

こういうときに感じる違和感って危機感のようなものでねー。
なんていうか、「自分が正しい!」って思いが損なわれそうな時に出てきたりするんですよね。

自我ちゃんってのは、元はといえば、自分と見なしている身体を守りたがる本能のようなもんやと思うんですけどね。
そこへの危機があると対処しようとするんですよ。

それはそれで、必要なことですのでね。

何ていうか、修行で自我を滅却しよう!なんてのはおかしな話でしてね。

そんなもん、滅却してしもたら、赤信号でも「恐怖は幻想なりー!」とか言って、ガンガン進んでいってしまうやーん。
てなことにね。
まあ、なる人はおらんとは思いますけど、そういうことになってしまいますのでね。

自我ちゃんはいても良いんです。
逆に変に抑え込もうとすると、そこに摩擦が起きるわけでしてねー。

抑え込まずに、可愛がってあげて、表現させてあげたら良いんですよね。

でね、逆説的になるんですけど、
自我ちゃん。どうぞどうぞ、かわいがってあげるから、表現したいだけしたらええんやでー。
てな具合に、自我ちゃんを開放してあげる。
って感じで見てあげるとね。

妙なコダワリとかも、誰にさらされるわけでもなく、自分にさらされるみたいなことになって、
なんていうか、許されていくんですよね。

許されていくとねー。
あ、自我ちゃんを強化して身を守らなくても大丈夫なんやん!
って、逆に自我ちゃんを信用することができるようになったりするんですよね。

信じてなかったから、身を守ろう、鎧を身につけようってな感じになってたっていうねー。

そうすると、人の同意とか、認められるような自分になるとかね、
そんなんもどうでも良くなってくるんですよね。

もちろん、自分がどうでも良くなるわけじゃなく、心が変わるってことじゃなくて、
自分の影響下から何かが開放されてくるって感じなんですけどね。

そんななかで、かちんと来たり、好き嫌いが起こるわけですが、
それはさらっと起こっては消えていくわけです。

そういったあらゆるものに対しての気付きだけがあります。

そんな気付きに、単に溶け込んどったらね、あとは勝手に起こってくれるんですよね。

あとは、楽しく修行したけりゃそれも良し。
楽しく我慢したら良いですし、楽しく成長したら良いですし、
楽しくなーんにもしなけりゃそれでも良いんです。

何かをするのに目的とかの原動力に頼らなくても良かったんです。
原動力ですら無い、単なる目的が起こってくることはあってもね。

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