Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

どうしても起こりがちな、納得したがり〜症候群

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どうしても納得したがり〜な動きって出てきちゃうもんですよねー。
気になってきちゃうんですよね。
こういった非二元の話でも、

なんや非二元て!
つまりどう言うことなんや!
どうなると非二元になるんや!

とかねー。

 

空とはなんぞや?
解脱とは?涅槃とは?

ってね〜。
気になっちゃいますし、
納得したくなっちゃうんですよね〜。

ついね。
そんな風になっちゃうんですけどね。

そうやって、何かを納得して理解しちゃったとたんに、
ある種のルールといいますか、概念といいますか、
そんな感じのもので何かを固定化させちゃうんですよねん。

その固定化が、分離をうむわけなんです。

常に流動化している、諸行無常の中で、
固定化された何かを概念として掴み取る訳ですね。

その概念は、また疑問を生み出します。
この概念についてはわかった!
ではこの場合はなんなのだろうか?

ってな具合にねー。
そうやって積み上げてくと答えが待っている。
積み上げれば積み上げるほどに、鋭く細くなっていき、
いつしか頂上の答えにたどり着く。

って言うねー。

なんか山登りみたいなね。
そんな山頂があるような、そんなイメージもあるのかもですけど、
登れば登るほど、もといた地上からは遠ざかるって言うパラドックスがあるんですよね〜。

色々と学んで、いろんなグルとか呼ばれてるおっさんの話を聞いて、
わしゃー随分とわかってきたのかも知れん、あと一掴みで辿り着きそうなんじゃー。
ってね〜。
思えてくるもんなんですけど、

結局、納得集めをすればするほど、
スタート地点から遠ざかっちゃうってなことになってしまって、
スタート地点がゴールやったと気づいたら、また戻らなきゃならんっていうことにも
なってしまいがちなんですよねー。

修行の先に「それ」があるという訳でもなく、
理解の先に「それ」があるわけでもなかったんですね。

なので一旦落ち着いて、まずはスタート地点に戻ってみて、
そこにいてみる。
そしてそこで、どっかに行きたがる衝動に気づいてみるんです。

その衝動は押さえ込もうとしたら、力を増し、
ほっておくとかまってくれー!とちょっかいを出してきます。

そういう個性なんやね!ってな具合で見てあげると、
見られるのに照れて、バレたか!ってなもんで
離れて行きます。
すると、その衝動自体が自分やとおもてたのに離れてもーたやん!
てな具合でね、
その衝動自身は衝動として起こっとたんやん。
ってなるんですけどね。
そうなると、そっかー。そうやって鑑賞してるこの意識がホントの自分やったんやん。
みたいな勘違いも出てきたりするわけですが、
それも何が何でも中心点として、自分を作ろうとする衝動ちゃんもいるのねー。
って気づいてあげるとね。
ホントにあったのは、その気づきだけっていうね。
そしてその気づきこそが経験そのものであって、
衝動も気づきそのものであり、経験そのものであり、
自分っていう概念も気づきであり、その経験であり、、
あれれ、起こってることも、気づきだし経験じゃん!

で、そんな経験しかなく、そこからは離れられないじゃん!
離れられないから、その行為者もおらず、分離もなく、
あるがあるだけで、あるとないといった区別も意味を失うんです。
それでいて、何も変わらずことは起こり、そして去っていくんです。

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