Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「あの時こうしていれば」の呪いから自由になるお話

はじめに

どもー!
タクさんです。

僕らって困ったことが起こるとすぐに、
「どうしてこうなったー!」
って騒いじゃいますよねー。

すぐに原因(理由)があるはずだ!って脊髄反射的に思っちゃうんです。

そして原因(らしきもの?)をみつけては、
「あの時もっとこうしていれば!」
って後悔するんですよねー。

そして「あの時もっとこうしていれば!」っていう思いが、ある種の呪いのようにもなってしまって、
今こんなことしてたら、また近い将来に「あの時もっとこうしていれば!」を味わうんじゃないか?って常にビビらるハメになるんです。

これは嫌な呪いですねー。
いわゆる「後悔したくない!」ってやつですね。

僕らの頭の中では、目の前の世界を「原因と結果」という因果関係に置き換えちゃうんです。
そしてこの世の全てはまるで因果によって構成されているかのように錯覚してしまうんです。

だから、どんなものにも理由があると思い込んでしまい、
「原因(理由)」という概念に縛られてしまうんです。

理由そのものが、そもそも存在してない問題。

もちろん、あらゆることには原因(理由)があって、その原因が結果を引き起こす。
思考でいくら考えても、これは正しいことのようにみえます。
だから、原因を変えれば結果も変わる!というのも、ものすごーく正しいことのように見えるんです。
ですが、これはもう思考というメガネを通した世界では正しいように見えるだけのことなんです。

そもそも原因や理由なんてものは存在していないんです。
ですが、そのことは思考で理解することができないんですよねー。

なぜなら、思考そのものが原因と結果という概念をつかってイメージの世界を作り上げる働きをもっているからなんです。

だから、思考で理解しようとしちゃうと、原因がない理由を探そうとしてしまうんです。
言い換えると、「理由がない理由を探す」みたいなものですね。

そうなると混乱しちゃうんです。
コンピューターが暴走する仕組みとおなじですね。

「私はいない」もまた、理由にはならない。

「私はいない」という言葉も何の理由にもなり得ません。
よく、「私はいない」から楽になれるんだ!
「全部自動」だから、お任せしていればいいんだ!

ってね。
なんとか楽になる理由を「私はいない」に求めたり、
お任せするのがちょっとこわいから、なんとか「全部自動である」ということを突き止めておきたい!
って思いが湧いてきたりするものなんですが、
これもちょっと違うんです。

私はいないとか全部自動っていうのは理由にはなり得ません。
そもそも理由というものは概念でしかなく、実体として存在していないんです。

「私はいない」をなんとか知ることによって楽になろう!って頑張ってみても、これもまた「理由」探しになってしまうので、無いものを探す終わらない旅になっちゃうんです。

「全部自動だから楽になるというストーリー。

確かに、「私はいない」とか「すべて全自動」といういわゆる当たり前の目の前の事実に触れた時、至福と言ってもいいような、楽な感覚を感じるかも知れません。

ですが、そんな時でも思考ちゃんはいつも通りの働きをしますので、
ついつい、「私はいない」し「全て全自動」だから楽だしお任せすればいい!っていう因果関係に基づいたストーリーを作り上げちゃったりするんですけどね。

それも含めて通常運転なんです。

ですので、
「思考ちゃんってば、どんな時でもそうやってストーリー作りをするよねー」
って眺めておいてあげればいいんです。

理由という存在は、思考が動かないと出てこないんです。

フィルムを回してはじめて映像が動いて見えるのと似たような錯覚なんですよねー。

この錯覚性に気づいてくると、そもそもこの世に原因も理由も存在し得ないことを知るんです。

 

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