Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

受け入れるってのは自己肯定じゃないよん

はじめに

はいどうもー!
タクさんです。

「受け入れましょう」って、よく言われるじゃないですか。
でもこれって難しいなー。うまくいかないなーって感じてる方って多いと思います。
すぐに自分へのダメ出しが出てきたり、
人のことに対して文句が出てきたりして、そんな自分も嫌だー!ってなっちゃったりしてね。

あれ?全然受け入れられてないじゃーん。
ってなったりして、

たまーにうまくいって、よし!受け入れられたっ!
ってなってもまたダメ出しが出てきたりしてね。

多分これがうまくいかないのって、「受け入れる」ということを誤解してるからだと思うんですよねー。

ということできょうはこの受け入れるについて書いてみたいと思います。

「自己肯定」は必要ないよん

そもそも、受け入れるということでよく誤解されていることは、
自己を肯定しようとするってことなんじゃないかな?って思うんです。

で、受け入れるときは自己否定をなんとか自己肯定に変えようという試みだと思うんです。
つまり「否定しがちな自分をOKにする」ことですね。
でもその時点で、「否定」と「肯定」というジャッジが生まれてますよね。
そしてそのジャッジの中でナンとかしようとすると「ダメ」と「いいね!」の間を行き来するだけってことになっちゃうんです。

たとえば、
「私はまだ自己肯定できてない」と思うとき、
すでに“できてるか・できてないか”という幻想の物差しが登場します。
その物差しは思考ちゃんの中にあるイメージ(幻想)です。

そしてその物差しは常に「今の私は合格かな?」って採点してくるんです。
そしていつしか、この物差しの幻想に巻き込まれてしまって、
うまくいった?ダメだった?を繰り返してしまうんです。

「どっちでもいい」にしなくてもいいよん

じゃあ、「どっちでもいい」って思えたらいいのかな?と思うかもしれませんが、
実はそれもちょっとちがうんですよね。

「どっちでもいいと思えるようになりたい」って時点で、
思いの奴隷になってる感じなんです。

どう思えたら正解か?みたいなね。
これもまた思考の中のジャッジのストーリーに入り込んでしまってるんです。

でね。
これって、なんていうかそういう思いが勝手に起こってるだけなんです。
だから、「受け入れよう」としても、「受け入れられない」と感じても、
どっちでもよくなくても、それでいいんです。
シンプルにそれが今の現れとして起こっているだけなんですよねー。

実はもう「受け入れ済み」だよん

実はもう僕らは「受け入れよう」とする前に、もう「受け入れてる」んです。

たとえば、今イライラしてるとする。
「イライラを受け入れられない!」って思ってるその瞬間、
もう“イライラしている自分”が現れてる。

つまり、そのイライラも、その抵抗も、
すでに「現れてる」んですよね。
そして現れてるものは、すでに「許されてる」んです。
許す人がいなくても、勝手にそうなってる感じです。

だから、「受け入れよう」とがんばる必要すらない。
がんばろうとしてる思考ちゃんも、ちゃんと現れてるんです。

「全てを受け入れる」というのは、
“良いことも悪いこともOKにしよう”というポジティブな訓練じゃありません。

ただ、今この瞬間に起きていることが、
すでに“そのまま”現れているという事実。
それだけなんです。

受け入れようとしてもいいし、
受け入れられなくてもいい。
どっちでも、もうすでに完璧。

そして、「この話をちゃんと理解しなきゃ」と思ってるその思考ちゃんも、
もちろんそのまんまでOKなんです。

 

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