
はじめに
「実は、猫よりも犬の方が猫舌!」
というわけで、どうもー!
猫舌のタクさんです。
みなさん熱いスープはお好きでしょうか?
さてさて、
僕らって物心ついた時から、あらゆることを「理解する」ってのを始めるわけで、
子供の頃なんて、この理解に必死になりますよねー。
知るっていう面白さに夢中になってるとも言えるかもしれません。
そして、学校に通い出すと、わかる=偉い、知らない=ダメ。
ってな感じで判断されて、必死にお勉強をするわけです。
まー、僕はといえばお勉強は苦手でしたので、成績はダメダメだったんですけどねー。
そして、この流れは学校を卒業しても仕事で延々と続くわけです。
そんな僕らが、理解できないものに出会うと自然と、
「まだ知らない概念があるんだ」とか「組み合わせ方がわからないんだ」って思いがちなんです。
だから、知らない概念を知ろうとしたり、概念の組み合わせ方を探ろうとしたりするんです。
でも、ここでのいわゆる悟りとか非二元のお話って、厄介なことに、その「概念の組み合わせ」の先にあるものじゃないんです。
先じゃなくて、むしろそのずーっと手前。
つまり、物心つく前に、もうすでに“あったもの”の再発見なんですよねー。
概念というメガネの話
僕らが「理解している」と思っていることって、そのほとんどが何かしらの概念か、概念と概念の組み合わせなんです。
「理解した」と感じるとき、
実際に起きているのは、概念と概念の整合にすぎません。
「AだからB」「BだからC」と、理屈がうまく噛み合った瞬間に、
思考は「わかった!」という感触を生み出すんです。
でもそれは、理屈の中で理屈が納得しているだけのことで、
まるで思考が自分で問題を出して、自分で丸をつけてるような、
小さな自己完結、まさに一人相撲なんです。
そして、いずれその自己完結に合致しないことが現れては新しい理屈を組み上げて納得ということを繰り返してきたわけなんですが、実際の目の前のホントの世界には、理屈の入り込む余地なんてなく、ただどっしりと、そして完璧に在るだけなんですよね。
ですが、言葉というもの自体が、こういった概念や理屈の組み上げをするためのツールになってますので、いわゆる悟りのようなお話も言葉にした途端、概念として受け取ってしまうというジレンマがあるんです。
「じゃあ言葉をやめてダンスで伝えよう!」なんてしても、それだって結局は理屈の解釈になっちゃうんですよねー。
本当はもう知っている
じゃあどうしたら「本当のそれ」に触れられるのか?
って感じちゃうものですが、実は何もする必要がないんです。
だって、もう触れてますのでね。
あれこれと騒いでいる思考ちゃんを静かに眺めながら、
どっしりと今に在ればいいんです。
つまり、何もしないということですし、そもそも僕らって何かをしているつもりになっているだけで、ホントは、なーんにもしてないんですよね。
新しい知識も、瞑想テクも、特別な先生もいらない。
むしろ「探究する力」をふーっと抜いていくと、
この「知ろうとする力み」が、今ここにある当たり前の静けさから目を背けていただけってことに気づくんです。
で、「ん? これ、ずっとあったじゃん」って知るんです。
理屈じゃなく感覚的に知る感じです。
それを言葉に訳そうとするとまたバグってくるんですけどね。
あの、物心つく前の感覚。
何も理解してなかったけど、ちゃんと在った、あの感じ。
それが今もずっとここにあるんです。