Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」はいないけど、すべてはある

はじめに

はいどうもー!
無くしものが多いタクさんです。

昔はねぇー。
切符も都度券売機で紙の切符を買っていたものですが、
あれもよく無くすんですよねー。

昔は、関西に住んでいたんですが、
大阪、梅田の地下街は新宿レベルにややこしくて、
電車をおりて地下街を歩いて地上を目指すわけですが、
階段を登るあたりで、「あ、切符だ!」と切符を探し始めるんですが、
ないんですよ。

「ないっ!ないっ!」とあれこれとポケットをまさぐってるうちに普通に地上に出ちゃったりして。
つまり、すでに改札を通ってたんですね。

そういうことも何度かあった気がします。

まー、それを思うと今はとっても楽ちんです。
スマホやスマートウォッチでスルッと通れちゃうんですもんねー。
財布を忘れてもまあなんとかなるし、最近は自宅の鍵も指紋認証で開けられるタイプにしましたので、鍵を忘れてまた部屋に戻るということもなくなりました!

はいっ!便利!

というわけで、今日はそんな「ないっ!ないっ!」について書いてみたいと思います。

「私」なんてない

僕らがあると思っているもの。
これらってぜーんぶないんですよねー。

例えば、「私」。
この「私とは」と言えるような私なんてないんです。
だって、皆さんだって「私」を意識する時って、それは心だったり考え方だったり体だったりとシチュエーションによってコロコロ変わりますよね?
本当に「私とは何?」って考えると、これだ!というものは見つからないと思います。

身体が私だ!と言ったところで、身体のどの部分まで私なの?と言われると、
そういえば、爪や髪の毛は違う気がしますし、指だってもし切れちゃったら私じゃない気がするし、内蔵にしたって、臓器移植の場合はどうなるんだ?ってなっちゃったりしますもんねー。

つまり「私」なんてものはないんです。

何かを体験しないとわからないの?

私だけじゃありません。
何かしらから目覚めるために、
そこに到達するような神聖で素晴らしい何かがどこかにあるわけでもないし、
自分の足りない何かを満たさなければならないというわけでもありません。

いわゆる悟りの体験なるものを体験しなきゃいけないわけでもないし、
何かに帰依しなければならないわけでもなけりゃ、自分を明け渡さなきゃいけないわけでもありません。

心を浄化させなきゃいけないわけでもないし、
何かを実践しなければならないわけでもない。

心を静寂に保たなければならないわけでもなけりゃ、
自分をアップデートして、どこかに到達しなきゃいけないわけでもないんです。

基準点は存在しない

そもそもね。
なにかしらの基準点というものがないんです。
僕らは何かを思考で捉えるときに常にこの基準点を設けるわけですが、
そんな基準点はそもそも存在しないよね?というお話なんです。

あれもなけりゃ、これもないんです。

そして、そんな「ないっ!ないっ!」を確かめてみますとね。

ありとあらゆる「何か」も存在しないとなると、全部あるじゃんっ!
ってな感じでひっくり返るんですよねー。

つまり、僕らが「ある」としていたものは、すべて「ない」ことを知ることで、
全てがある!を知るんです。

僕らが今まで「ある」としていたもの。それは架空の境界線だったんですねー。
そんな境界線は、国境と同じで、存在してなかったんです。

 

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