
はじめに
はいどうもぉー!
タクさんです。
よくね。
自我とか真我って、しばしば対比で表現されたりするじゃないですか。
自我っていうのはいわゆるエゴのことですよね。
そして、この対比を見ると自我じゃない真我を持たなきゃいけないってことね!
って解釈しちゃうことってあると思うんですよ。
でね。
この「エゴ」という言葉は、どんな意味合いで使われているかというと
エゴイストから連想されるように、
自分の考えを押し付ける行為であったり、自分勝手な考えといった意味合いで使われてたりしますよねぇ?
つまり、エゴとは自分に都合のいい考えであり、そんな考えがあるから真我にたどり着けないんだ!
ってな解釈をしている方もおられるかもしれません。
そうなっちゃうと、ついつい僕らは自分の思考に目を向けて、
「ああ、この考えはエゴだなぁ。こういう考えは手放していかなきゃいけないな!」
っておもっちゃったりしてねー。
なんか必死で思考の中で四苦八苦しちゃう。
なーんてこともあるかと思うんです。
なんか、思考の中に、悪い思考と良い思考があるかのように感じちゃったりしてねー。
でもね。
思考に良いも悪いもないんです。
っていうか、思考に種類も種別もないんです。
そんな思考の中で、これはこうだから良い思考。
これはこういう理由から悪い思考。つまりエゴである!
みたいなラベルわけをしたところで、これって空想の遊びをしているだけなんですよねー。
思考は実体に干渉できない
このお話は別に思考の中にあるエゴを探し出してそれを捨てましょう!っていうお話ではありません。
これをしている限り、ずーっと空想遊びの中にいることになりますからねー。
厄介なのは、空想遊びをしていることに気づかず、それが実体をともなった事実であるかのように扱っちゃうことなんです。
思考っていうのは、どんな思考であれイメージであって実体ではありません。
この実体に触れたなら、思考がそこに干渉なんて出来ようはずがないことを知るんです。
そんな実体に戻りましょうねーっていうお話なんですよねー。
いつもここにある
まあ、戻りましょうねーとか言っちゃうと、実体から離れているかのように思っちゃうかもしれませんが、僕らはもちろんのことながら実体から離れたことなんてありません。
離れられるはずもないんですが、そんな実体を思考の解釈に置き換えて、この解釈を実体だと錯覚しちゃっているんです。
しかも、面白いことにしっかりと実体に触れながら錯覚しているんです。
まるで、本物に触れながら、頭の中で作り上げたイメージで置き換えたものが本物だと思い込んでいる感じなんです。
そして、このイメージの中だけに、分離があり、その分離によって良いと悪い、正しいと間違い、嘘と本当があるかのように見えているだけなんです。
そして、悪いを良いに変えようとしたり、間違いを排除して正しいを選択するべくより良い判断基準を探し求めたりするんですよねー。
これらは、空想のルールの上では役に立つこともあるんですが、どこまでいってもそれは空想のイメージ遊びの延長なんです。
ですので、なにかしらの正しい判断や正しい考えに置き換えるという話でもないんですよねー。
では、事実、実体はどういうことなのか?といいますとそれはとてもシンプルです。
パンッと手を叩いたらパンッとなる。これくらいシンプルなんです。
なんのひねりもありませんし解釈が介在するスキもありません。
そこに戻ってくると、思考はありとあらゆる実体にすぐに解釈をつけたがり、そして変えようとしたり、後付けで「私がやってるんだ!」という解釈を加えたりしてることがよーく見て取れるんですよねー。
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