
はじめに
どもー!タクさんです。
僕らってね。なんか根底に強欲はダメ!
みたいな思いってありますよねー。
色々と人と話していて、
「それはあなたのエゴだよー」
なんて言われたら、
「あ!いけね!」って思っちゃったりしてね。
欲はエゴ、そしてエゴとは自我でもあり、わがままといったような意味にも使われていて、
そういった自我にふりまわされるのはよく無いよー!みたいな考えもあったりしてね。
「欲を捨てよ!」といったような厳しいフレーズに若干主導権を握られたりしているわけです。
だからこそ、むかしの名作映画!「ウォール街」の
「欲張ることはいいことだ!」というセリフも刺さったりするのかもしれませんねー。
聖書なんかでも「富める者は天国に入れない」と言ったようなニュアンスのことが書かれていたりして、なんだか富もちょっと悪者であるかのように言われてたりしますが、
実際にここで説かれていることって、
贅沢はダメとか、富はダメっというよりは、
「心の拠り所を外に求めちゃうと、あんた迷っちゃうよ!」
っていう教えなのであって、別に富がダメっていうのとはちょっとニュアンスが違うんじゃ無いかなーって思ったりします。
欲も禁欲も外側依存
欲って、だいたい外の何かで足りないを埋めようとする動きですよね。
別にこの動き自体は問題ないんでしょうが、そこに依存しちゃうと僕らは迷っちゃうんですよね。
「あれがあれば落ち着く」「これさえ手に入れば安心できる」みたいなやつですが、
これって手に入れた途端やっぱりまだ足りないってなるんです。
外側のもので内側を満たそうとしても、外に依存しているせいで内側がないがしろになっちゃっているんですよねー。
そりゃー、満たされるはずがないので、いくら外側の何かで埋めようとしてもそりゃー満たされないのは当たり前なわけです。
これって禁欲も同じで、「欲のない私」という状態を作って、それで安心しようとする。
形は違っても、どちらも外に依存しちゃうことになるので一緒なんですよねー。
だから禁欲すりゃーいいってわけでもないんです。
あの「富める者/貧しい者」の話も、
富める者は、外によりどころを置き、思考で頭が満席になっていることであり、
貧しい者は、外によりどころがなくても静かで満ち足りているってことを表現しているんだろうと思います。
別に金持ちであることが悪で持たざる者が善というわけでもなく、善悪という外側の概念に依存しないこと。
外側の概念を遊ぶのは全然良いとして、それに依存しちゃうと迷うよー!ってことなんじゃないかなーって思うんです。
自らを拠り所にする
外に頼る癖が外れたとき、残るのはただの静けさです。
外側ってのは、そもそも思考で作られた幻想の空間ですからね。
そこへの依存が抜けると、まー楽なんです。
形のない重みってのが、当たり前なんですが重さがなかったってことを知るわけですね。
「自らを拠り所に」というのは、自分の気づきや直接の体験を大事にすることなんだと思います。
ちょっと要注意なのは直接の体験や気づきを安易な解釈に変換しないこと。
そのまんまの味付けなしのコレ。まさにコレこそ自分そのものだし、コレと自分に境界線もないんですよね。
よく観察してみると、外だと思っていたものも、内だと思っていたものも、どちらも“内”に含まれていて、その“内”すら実体じゃなく、ただ便宜上のイメージでしかないんです。
本当は、観察すら誰もしていなくて、ただ今ここにあるだけなんです。
だから、がんばって自分をどうにかしようとしなくてもいいし、今だけ、今にリラックスしていればいいんです。
リラックスしている自分を持続しなければならないというわけじゃありません。
だから「また思考にまみれたらどうしよう」なんて心配もいらないんです。
そのうち、「思考にまみれるってなんやねん!そんなこと起こったことすら無いやないか!」って気づくかもしれませんよー。